カール3世とは? わかりやすく解説

カール3世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/20 15:55 UTC 版)

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カール3世Karl III.Karl III)は、ドイツノルウェーなどの君主の名前。


カール3世(肥満王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 07:30 UTC 版)

東フランク王国」の記事における「カール3世(肥満王)」の解説

ルートヴィヒ2世876年に死ぬと、三人の息子東フランク王国分割相続した。長男カールマンバイエルン次男ルートヴィヒ3世ザクセン三男のカール3世がアレマニア継承したバイエルン王カールマン第四ローマ皇帝ロドヴィコ2世から後継者指名されていた。しかし875年ロドヴィコ2世死去した際、実際にイタリア奪取して教皇ヨハネス8世指名第五ローマ皇帝となったのは叔父西フランク王シャルル禿頭王であった皇帝カール2世)。翌年ルートヴィヒ2世が死ぬと皇帝帝国統一もくろみアーヘン急襲ケルン拠点ルートヴィヒ3世領地へと兵を進めた東フランク三兄弟連合軍組織して10月8日にアンデルナハの戦いで皇帝軍を破った877年皇帝死去すると、カールマンイタリア奪還した。しかし879年病を得カールマン嫡子を得ないまま皇帝になることなく880年死去したバイエルンザクセン王ルートヴィヒ2世が、イタリアアレマニア王カール3世が継承したザクセン王ルートヴィヒ3世879年西フランク起きた継承争い介入しリブモント条約により西フランク王国からロタリンギア西部獲得した。これによってルートヴィヒ3世ロタール2世以来ロタリンギア王になったその後、兄のカールマンからバイエルン相続したことでアレマニアを除く東フランクの王となった。しかし882年に兄と同じく嫡子無きまま死去して弟のカール3世が遺領を継ぐことで東フランク統一された。 アレマニア王カール3世(肥満王)は880年に兄のカールマンからイタリア相続し881年には第六西ローマ皇帝として戴冠した882年には兄ルートヴィヒ3世死により東フランク王国統一884年には西フランク王兼ねて西ローマ帝国フランク王国)」を再統一した。全フランク相続によって一時的に統一されたが肥満王には才覚意欲もなかった。887年モラヴィア公スヴァトプルク1世ノルマン人の侵入への弱腰な対応がもとで貴族らの反乱招き翌年肥満王は廃位された。その後再び東フランク王国西フランク王国イタリアは独自の王を頂くことになり、以後帝国統一永遠に失われることになった

※この「カール3世(肥満王)」の解説は、「東フランク王国」の解説の一部です。
「カール3世(肥満王)」を含む「東フランク王国」の記事については、「東フランク王国」の概要を参照ください。

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