カール3世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/20 15:55 UTC 版)
Jump to navigation Jump to searchカール3世(独:Karl III.・諾:Karl III)は、ドイツ・ノルウェーなどの君主の名前。
- カール3世 (フランク王) (839年頃 - 888年) - 東フランク王および「西ローマ皇帝」、のち兼西フランク王。“肥満帝”と呼ばれる。
- カール3世 (ロートリンゲン公) ⇒ シャルル3世 (ロレーヌ公) (1543年 – 1608年) - “偉大公”と呼ばれる。
- カール3世フィリップ (プファルツ選帝侯) (1661年 - 1742年)
- カール3世ヴィルヘルム (バーデン=ドゥルラハ辺境伯) (1679年 - 1738年)
- カール3世 (ノルウェー王) ⇒ カール14世ヨハン (スウェーデン王) (1763年 - 1844年) - フランス出身で、元の名はジャン=バティスト・ベルナドット。
- カール3世アウグスト・クリスティアン (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公) (1746年 - 1795年) - バイエルン王マクシミリアン1世の兄。
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カール3世(肥満王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 07:30 UTC 版)
「東フランク王国」の記事における「カール3世(肥満王)」の解説
ルートヴィヒ2世が876年に死ぬと、三人の息子が東フランク王国を分割相続した。長男のカールマンがバイエルン、次男のルートヴィヒ3世がザクセン、三男のカール3世がアレマニアを継承した。 バイエルン王カールマンは第四代ローマ皇帝ロドヴィコ2世から後継者に指名されていた。しかし875年にロドヴィコ2世が死去した際、実際にイタリアを奪取して教皇ヨハネス8世の指名で第五代ローマ皇帝となったのは叔父の西フランク王シャルル禿頭王であった(皇帝カール2世)。翌年にルートヴィヒ2世が死ぬと皇帝は帝国の統一をもくろみアーヘンを急襲、ケルンを拠点にルートヴィヒ3世の領地へと兵を進めた。東フランクの三兄弟は連合軍を組織して10月8日にアンデルナハの戦いで皇帝軍を破った。877年に皇帝が死去すると、カールマンはイタリアを奪還した。しかし879年に病を得たカールマンは嫡子を得ないまま皇帝になることなく880年に死去した。バイエルンはザクセン王ルートヴィヒ2世が、イタリアはアレマニア王カール3世が継承した。 ザクセン王ルートヴィヒ3世は879年に西フランクで起きた継承争いに介入し、リブモント条約により西フランク王国からロタリンギア西部を獲得した。これによってルートヴィヒ3世はロタール2世以来のロタリンギア王になった。その後、兄のカールマンからバイエルンを相続したことでアレマニアを除く東フランクの王となった。しかし882年に兄と同じく嫡子無きまま死去して弟のカール3世が遺領を継ぐことで東フランクは統一された。 アレマニア王カール3世(肥満王)は880年に兄のカールマンからイタリアを相続し、881年には第六代西ローマ皇帝として戴冠した。882年には兄ルートヴィヒ3世の死により東フランク王国を統一、884年には西フランク王を兼ねて「西ローマ帝国(フランク王国)」を再統一した。全フランクは相続によって一時的に統一されたが肥満王には才覚も意欲もなかった。887年にモラヴィア公スヴァトプルク1世やノルマン人の侵入への弱腰な対応がもとで貴族らの反乱を招き、翌年肥満王は廃位された。その後再び東フランク王国、西フランク王国、イタリアは独自の王を頂くことになり、以後帝国の統一は永遠に失われることになった。
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