混乱と最後の統一(877年 – 888年)
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「カロリング帝国」の記事における「混乱と最後の統一(877年 – 888年)」の解説
877年にシャルル2世がモン・スニ峠を越える途中に死去した後、帝国は北方や西方からのヴァイキングの侵入や国内での内紛により混乱を深めていった。息子のルイ2世は西フランク王位を継承したが、病弱で皇帝位を受け継ぐことなく2年後に死去した。王国は2人の息子によって分割され、ルイ3世がネウストリアとフランキア、カルロマン2世がアクィタニアとブルグンディアを継承した。西フランク王に従っていたプロヴァンスのボソは2人に忠誠を誓うのを拒否し、キスユラブルグント王国を建て独立した。イタリア王位はルートヴィヒ2世の息子のバイエルン王カールマンが継いだが、2年後の879年にイタリア王位を弟カール3世に、バイエルンをルートヴィヒ3世に譲った。 881年、カール3世は皇帝に即位し、翌年に死去したルートヴィヒ3世とルイ3世の領土を併合した。一方アクィタニア・ブルグンディア王カルロマン2世はボソからキスユラブルグントの大半を奪還しつつあったが、884年に狩猟中の事故で死去し、その領土もカール3世が併合した。ここに、カール大帝以来のカロリング帝国はカール3世の元で再統一された。 癲癇を患っていたカール3世はヴァイキングから帝国を守ることができず、886年にパリからの撤退税を支払う屈辱的な講和を結び、無能をさらけ出した。翌887年にバイエルン公カールマンの庶子アルヌルフが反乱を起こすと、カール3世は戦わずにナイディンゲンに逃れ、退位した後888年に死去した。ここにカロリング家による帝位継承は一旦途絶え、カール大帝以来の版図は以降永久に分割されることとなった。
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