混乱と最後の統一とは? わかりやすく解説

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混乱と最後の統一(877年 – 888年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:10 UTC 版)

カロリング帝国」の記事における「混乱と最後の統一(877年888年)」の解説

877年シャルル2世モン・スニ峠越え途中死去した後、帝国北方西方からのヴァイキング侵入国内での内紛により混乱深めていった。息子ルイ2世西フランク王位を継承したが、病弱皇帝位受け継ぐことなく2年後死去した王国2人の息子によって分割されルイ3世ネウストリアフランキアカルロマン2世がアクィタニアとブルグンディア継承した西フランク王に従っていたプロヴァンスボソ2人忠誠を誓うのを拒否しキスユラブルグント王国を建て独立したイタリア王位ルートヴィヒ2世息子バイエルン王カールマン継いだが、2年後879年イタリア王位を弟カール3世に、バイエルンルートヴィヒ3世譲った881年カール3世皇帝即位し翌年死去したルートヴィヒ3世ルイ3世領土併合した一方アクィタニア・ブルグンディア王カルロマン2世ボソからキスユラブルグントの大半奪還しつつあったが、884年狩猟中の事故死去し、その領土カール3世併合した。ここに、カール大帝以来カロリング帝国カール3世の元で再統一された。 癲癇患っていたカール3世ヴァイキングから帝国を守ることができず、886年パリからの撤退税を支払屈辱的な講和を結び、無能をさらけ出した。翌887年バイエルン公カールマン庶子アルヌルフ反乱を起こすと、カール3世戦わずにナイディンゲンに逃れ退位した888年死去した。ここにカロリング家による帝位継承は一旦途絶えカール大帝以来版図以降永久に分割されることとなった

※この「混乱と最後の統一(877年 – 888年)」の解説は、「カロリング帝国」の解説の一部です。
「混乱と最後の統一(877年 – 888年)」を含む「カロリング帝国」の記事については、「カロリング帝国」の概要を参照ください。

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