混乱と逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:07 UTC 版)
「ルーマニア革命 (1989年)」の記事における「混乱と逃亡」の解説
12月22日 - 革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及び、チャウシェスクはブカレストから脱出、政権は崩壊した。反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織し、テレビ・ラジオ局を掌握した。これにより国営ルーマニア放送は「自由ルーマニア放送」と改称される。チャウシェスクは非常事態宣言を出し、事態に対応しようとするが、国軍がミリャの不審死で離反し、革命勢力の支持に回り頓挫した。共産党本部の屋上から妻エレナや側近と共にヘリコプターでの脱出を図った。しかし一連の逃亡劇は反体制側に転じた国営放送の他、世界各国のマスメディアで映像が流されるなど、お粗末なものであった。 一見盤石な支配体制を築いていたと思われていたチャウシェスクは、この逃亡劇においても多くの裏切り行為に遭った。ヘリコプターのパイロット、マルタン中佐は、わざと機体を上下に揺らして「レーダーに捕捉され、対空砲火を受けた」と嘘をついて夫妻の逃亡を諦めさせようとした。やむなくヘリでの逃亡を諦めたチャウシェスクは着陸させ、陸路での逃亡を試み、たまたま自動車を運転していた地元の医師ニコラエ・デカを脅し逃亡を手伝わせた。しかし、革命を知っていたデカは面倒ごとに巻き込まれたくないとエンジントラブルを装い、すぐに一行を降ろした。再び一行は車を洗っていた工場労働者のニコラエ・ペトリソルを脅し、南部の都市トゥルゴヴィシュテへ向かわせた。車中のチャウシェスクはカーラジオで情報収集を試みたが、既にメディアが救国戦線に乗っ取られたことを悟ると激高したという。ペトリソルは街の外れにある農業施設まで彼らを案内した。施設の所長は匿うふりをして一行を一室に案内して監禁し、近くに駐屯していた国軍(デカの通報を受けて既に情報をつかんでいた)に身柄を引き渡した。 その後、首相のコンスタンティン・ダスカレスクは辞任し、内閣も総辞職した。チャウシェスク政権を批判して投獄されていた政治犯も次々と釈放された。夜になると、ブカレスト市内各地で反体制派についた国軍と大統領派のセクリターテによる激しい市街戦が発生し、多数の死傷者が出た。 12月23日 - 前夜からの市街戦は更に激しくなっていく。大統領派は秘密の地下通路などを利用して国軍や市民への発砲を続けた。救国戦線評議会は、発砲してくる大統領派を「テロリスト」と呼び市民に協力を要請し、これに応じた市民も銃をとり、大統領派に応戦する。混乱により情報が錯綜する中、ハンガリーから軍の派遣要請の連絡を受けるが、これを拒否する。また、ソ連が事態沈静化の為に介入しようとするが、これも拒否する。そして救国戦線と国軍によりチャウシェスク夫妻が逮捕されたことが、18時にテレビで報道された。以前のソ連であれば、(比較的穏健派のニキータ・フルシチョフが最高指導者の時代でさえ)こうした反政府クーデターへのソ連軍の介入は「問答無用」で行われ、相手国の受け入れ同意の有無はソ連が後から「あったことにする」のが通例だった(プラハの春など)。しかし、この当時のソ連最高指導者ミハイル・ゴルバチョフは自らの新ベオグラード宣言による対外公約を守り、衛星国の東欧共産国に対しても強権を振るうことはほとんどなかった。
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