混乱と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 14:32 UTC 版)
北西インドのシク教徒らはアフガン勢力の統治を嫌い、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがインドから去ると、インドのアフガン領で一斉に反乱が起きた。また、北西方面に進んだマラーター同盟は、1758年4月20日にラホールを、同年5月8日にペシャーワルを占領し、パンジャーブ一帯を占領した。そのため、1759年にアフガン軍がその奪還のためにインドに侵攻し、マラーターからラホールとペシャーワルを奪い返し、アフガン勢力は再びデリーに近づいてきた。 このように、アフガン軍がインドに侵入して情勢が乱れると、宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンは自分の手駒であるアーラムギール2世がアフマド・シャー・ドゥッラーニーの手に渡るのではないかと恐れるようになった。 同年11月29日、皇帝アーラムギール2世はデリーのフィールーズ・シャー・コートラでスーフィーに会おうと思って訪れたとき、ガーズィー・ウッディーン・ハーンに暗殺された。その遺体は近くの川に投げ込まれ、のちに回収されてフマーユーン廟に埋葬された。 12月10日、ガーズィー・ウッディーン・ハーンはアウラングゼーブの息子カーム・バフシュの孫に当たるシャー・ジャハーン3世を傀儡の皇帝とした。一方、アーラムギール2世暗殺の報は、12月には国境にいたその息子アリー・ガウハールのもとにも伝わっており、同月24日に彼は帝位を宣し、シャー・アーラム2世となった。
※この「混乱と死」の解説は、「アーラムギール2世」の解説の一部です。
「混乱と死」を含む「アーラムギール2世」の記事については、「アーラムギール2世」の概要を参照ください。
- 混乱と死のページへのリンク