宮廷の混乱と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/08 21:17 UTC 版)
「サフダル・ジャング」の記事における「宮廷の混乱と死」の解説
だが、サフダル・ジャングとバーラージー・バージー・ラーオの協定は破綻してしまった。1750年代、サフダル・ジャングは彼を中心とするイラン系貴族と、軍務大臣ガーズィー・ウッディーン(フィールーズ・ジャング2世)や、後宮監督官ナワーブ・ジャウド・ハーンといったトルコ系貴族との争いに巻き込まれた。 1752年8月、サフダル・ジャングはナワーブ・ジャウド・ハーンを暗殺したが、トルコ系貴族らよりも優位に立てず、1753年5月13日に彼は宰相職を解任され、帝都デリーからアワドに引き上げた。 1754年10月5日、サフダル・ジャングはスルターンプルで死亡し、デリー(現ニューデリー)の彼の領地に建てられたサフダル・ジャング廟に埋葬された。
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