宮廷へ出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:03 UTC 版)
「フランシスコ・ボルハ」の記事における「宮廷へ出仕」の解説
家族に宮廷へ送り込まれるとそこで頭角を現し、皇帝カール5世と皇后イサベルの目に留まり、1529年9月にマドリードでポルトガル貴族の婦人で皇后の女官でもあるレオノール・デ・カストロ・メロ・エ・メネゼス(英語版)と結婚した。外国人と息子の結婚を嫌う父の反対に遭ったが、皇帝の執り成しで結婚の同意を得られ、2人の間には8子が生まれた。続いて皇帝夫妻から恩寵が与えられ、フランシスコは皇帝からロンベイ侯爵および王室狩猟長、皇后からは自分の馬術教師に任命され、夫婦そろって皇帝夫妻の友人として重用された。更に1530年、カール5世が外国へ行く時にフェリペ王太子(後のスペイン王フェリペ2世)の個人教師と皇室執事にも任命されている。 この頃、異端の疑いで異端審問所により投獄されたイグナチオ・デ・ロヨラと出会い、会話したという。フランシスコは仕事が忙しくなり、ロヨラのことはさほど印象に残らなかったが、ロヨラは釈放された後イエズス会を立ち上げることになる。 昼夜を問わず皇帝の館へ出入りする許可を与えられたフランシスコは多忙になり、皇帝に同行して幾度も従軍し、1535年のチュニス征服に従軍した際、マラリアに罹り長期間病床から離れられなかった。翌1536年7月にフランス南部プロヴァンスへの遠征にも従軍したが負け戦に終わっただけでなく、友人ガルシラソ・デ・ラ・ベーガを失う痛手も負った。これとは別に皇帝の国内巡行に同行、皇帝に代わり学問に打ち込み、アロンソ・デ・サンタ=クルス(英語版)の講義を受けてその知識を皇帝へ伝達する役目もこなし、全力で主君に尽くした結果、再度重病に倒れる羽目に陥った。 病気から回復した1539年、亡くなった皇后の葬儀を取り仕切り、葬儀の先頭に立つ王太子と共に遺体を警護して妻と共に埋葬地グラナダへ向かった。フランシスコはそこで、美しかった皇后でも命を失えば儚く崩れていく様を見て「2度と命ある君主に仕えまい」と決め、隠棲を考え始めた。しかし、まだ若い貴族だった彼は皇帝からカタルーニャの副王に命じられ、4年間よく同地を治めた。ここでは盗賊と反抗的なアラゴン貴族や不正を働く官僚達を厳しく取り締まり、防衛強化と治安維持に努力した。カタルーニャ住民には好意を持たず、住民からも厳格な統治をあまり受け入れられなかったが、皇帝からの信頼は深まり財政援助のためサンティアゴ騎士団の領土を分与、騎士団幹部に任命された。 副王在任中の1541年4月17日、ロヨラはイエズス会初代総長に選ばれた。彼が派遣した宣教師の1人アントニオ・アラオスがバルセロナに下船、イエズス会支援を説得されたフランシスコはイエズス会士を歓迎、ロヨラと文通を交わし、イエズス会との関係がこの時期から始まった。 1542年12月17日に父が亡くなるとガンディア公位を継承したが、翌1543年4月にバルセロナで滞在中のカール5世へカタルーニャ副王辞任を申し出た。故郷へ戻ることを希望していたフランシスコに対して皇帝は辞任を承諾したが、王太子の結婚相手であるマリア・マヌエラの家令に任じ、妻と2人の娘も女官に任命したため、一家はなかなか故郷へ戻れなかった。1545年にマリア・マヌエラが没したことを契機に妻子と共に故郷へ隠棲し、土地管理と領民の動向に気を配りつつ祈りの毎日を過ごすようになった。そこで、スペインを訪れていたピエール・ファーヴルとアラオスに出会い、イエズス会の精神に大きな魅力を感じた。一方、1542年に疲労で隠遁を考え始めた皇帝から内心を打ち明けられたりもしている。
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