宮廷内での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 13:51 UTC 版)
「ベルナール・ド・セプティマニー」の記事における「宮廷内での活動」の解説
829年8月、皇帝ルートヴィヒは息子ロタール1世をイタリア王にするためパヴィアに送った。ルートヴィヒは息子の代わりにベルナールを宮廷に召喚し、侍従の位を与え、当時はアルザス、アレマニアおよびラエティア公で後に西フランク王となる王子シャルルの後見を命じた。ベルナール自身の領地の支配は弟ゴーセムに委託し、ゴーセムは辺境伯と名乗った。 宮廷に来て数か月のうちに、ベルナールは多くの敵を作った。実際、ベルナールは翌年のロタールの反乱のきっかけとなった。トリーアのテガン(Thegan)はその著書『皇帝ルートヴィヒの事績』において、ベルナールが皇后ユーディトとの不義の関係で告発されたと記述しつつ、この噂は真実ではなかったとの考えを示している。いずれにしろ、830年4月、この噂がもとで、ブルトン人と戦うためにレンヌに集められた軍において反乱が起こった。ルートヴィヒの3人の息子が反乱軍を支援したため、命の危険を感じたベルナールは宮廷を退き、『サンベルタン年代記』によるとバルセロナに戻ったという。弟エリベールは宮廷にとどまっていたが、追放された。また、ベルナールはオータン伯領を没収された。 830年10月のナイメーヘンの会議において、息子らの反乱の後にルートヴィヒはベルナールの地位を回復した。その後、831年2月にアーヘンで開かれた会議において、ルートヴィヒは帝国を分割し、ゴティアをシャルルに与えたが、これはルートヴィヒの死まで効力をもたなかった。ベルナールはユーディトとシャルルの支持を再び得ようとしたが、ユーディトらは関係を修復しようとはしなかった。831年10月のティオンヴィルの会議において、ベルナールは私的に皇帝と話したが、宮廷において以前のような地位を取り戻すことはできなかった。それにより、ベルナールは以前の忠誠を捨て、皇帝の敵となった。
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