反乱のきっかけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:42 UTC 版)
詳細は「名誉革命」および「ニューイングランド自治領」を参照 1664年、イングランド軍がニューネーデルランドを制圧し、イギリス国王チャールズ2世がこの地を弟のジェームズ、当時のヨーク公に与え、望むように統治させた。ジェームズはこの地をイーストジャージーとウエストジャージーに分割して、他の出資者にまかせた。また、2人の廷臣に与えて、その廷臣が東西に分割したとも言われる。この植民地政府は、本質的に独裁制であり、強い権限を持つ総督と評議会(council)を有したが、選挙による議会はなかった。 1685年、ジェームズは兄の後を継いで王位に就き、翌年ニューイングランド自治領を設立した。1688年5月、ジェームズはドミニオンにニューヨークと東西のジャージーを組み込んだ。自治領の総督であるサー・エドマンド・アンドロスは、この年の夏にニューヨークに到着し、自らの支配を打ち立て、イギリス海軍の大尉であったフランシス・ニコルソンを副総督に就任させ、自治領の統治をさせた。ニコルソンの統治は、地元の評議会からは補佐されたが、立法議会はそうでなかった。ニューヨークの住民からは「我々の昔からの特権を倒し、最も恣意的な統治をする」一連の勅選総督の候補と見られていた 。ニコルソンは、入植者を「彼らは被征服民であり、それゆえ…イングランド人としての特権や権利は要求することさえできないはずだ」 1688年の末に名誉革命が起き、カトリックのジェームズは退位に追い込まれ、プロテスタントのウィリアム3世とメアリー2世が代わって即位した。アンドロスの統治は、特にマサチューセッツでかなりの不評を買っていた。名誉革命のことを聞きつけるや、マサチューセッツの反アンドロス派は、この革命にかこつけて、自らの政治的利益のために暴動を起こした。1689年4月18日、ボストンに現れた暴徒は、指導者たち、自治領総督であるアンドロスや自治領の役人を逮捕した。この事件により、マサチューセッツや他のニューイングランドの植民地で暴動が段階的に起こり、急速に自治領結成前の状態に戻って行った。
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