反乱と権力の縮小
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 09:47 UTC 版)
「ボレスワフ1世ヴィソキ」の記事における「反乱と権力の縮小」の解説
だが、弟を排除しての全権力の行使は1172年にミェシュコ1世の反乱を招いた。シロンスク公爵家における大きな動乱として、ミェシュコ1世は甥でボレスワフ1世の長男ヤロスワフを支持した。ヤロスワフは継母クリスティナの陰謀により聖職者になることを強制されており、クリスティナは自身の息子達が唯一の相続者となるよう願っていた。反乱はボレスワフ1世にとって全くの驚きであり、彼はドイツのエアフルトへの逃亡を余儀なくされた。 フリードリヒ1世は公国をボレスワフ1世に取り戻させるために、強力な武力干渉によってボレスワフ1世を支持することに決めたが、叔父のミェシュコ3世(老公)が皇帝の激情を静め、ポーランドの国内事情から遠ざけるためにボレスワフ4世によって派遣された。ミェシュコ3世はフリードリヒ1世に8000本の銀を与えて、ボレスワフ1世の復帰を約束、彼は1173年の初めに自邸へと戻った。しかし、弟と息子との和解にもかかわらず、彼はシロンスクを分割して、ラチブシュ公国をミェシュコ1世に、オポーレ公国をヤロスワフに与えなければならなくなった。 4年後の1177年、ボレスワフ1世は人生における主要な目的、長子領とこれに付属する首位の公の称号の回復に近づいていた。叔父カジミェシュ2世と従弟オドンとで、ミェシュコ3世(老公)から統治権を奪うために陰謀を企てた。 クーデターはマウォポルスカの支持を得て、カジミェシュ2世はマウォポルスカを支配し、ヴィエルコポルスカはオドンの味方をした。しかし、ボレスワフ1世はミェシュコ1世とヤロスワフに再び反乱を起こされ、思いがけない敗北を被った。このことはカジミェシュ2世が誰からの干渉を受けることなく行動できるようにし、カジミェシュ2世は首位の公であると宣言された一方、ボレスワフ1世は再びドイツへ逃亡した。カジミェシュ2世の調停のおかげで1177年に公国へ戻ったが、末弟コンラトにグウォグフを与えることを強要され、権力の更なる縮小に苦しんだ。
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