反乱と大陸領の喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 06:52 UTC 版)
「ヘンリー6世 (イングランド王)」の記事における「反乱と大陸領の喪失」の解説
5月、ヨーク公に共感しジョン・モーティマーと称するジャック・ケイドが、サザークのホワイトハート・イン(「ホワイトハート(白い雄鹿)」は王位を逐われたリチャード2世のシンボルであった)を本拠として、ケントの反乱を率いた。反乱軍は政府批判とヨーク公の宮廷登用など体制刷新の意見を携え、ロンドン近郊のブラックヒースまで接近、ヘンリー6世は反乱を鎮めるため軍を率いてロンドンに向かったが、彼は軍の半分がセブンオークへ撤退したケイドに対峙している間、残りの半分を待機させておくよう説得されたため、軍を2分する過ちを犯した。ケイドは半数の国王軍に勝利し、ロンドンを占領するため進軍し6月に入城した。ヘンリー6世は敗報を受けてウォリックシャーへ逃亡、反乱軍はロンドンで略奪を働いた末に国王派の説得を受けて解散した(7月にケイドはサセックスで戦死)。結局反乱は何の成果もなく、数日間の無秩序の後、ロンドンは再び王軍の手に帰したが、この反乱は不満が高まっていることを示すものだった。 9月にヨーク公がアイルランドから帰国して政治改革を主張し始め、ヘンリー6世や側近集団は動揺した。ヨーク公は王に危害を加えず側近の処罰や恣意的政治の撤回を求め、議会も彼の運動を支持したが、ヘンリー6世とサマセット公(サフォーク公に代わり側近となっていた)は要求を拒絶、翌1451年5月に議会を解散してサマセット公が国王と王妃の支持を得て専制政治を継続した。しかしヨーク公はこれで諦めた訳ではなく、地方の紛争に介入して支持者を増やす作戦に切り替え、以後も宮廷への挑戦を試みていった。 1452年1月、ヨーク公はヘンリー6世へ不満事項と宮廷一派への要求を記したリスト(サマセット公の逮捕も含むものであった)を示し、1450年と同様の趣旨を書いた意見書を提出し2月にシュロップシャーのラドロー城で挙兵、ヘンリー6世ら宮廷派も直ちにロンドンの防備を固め出陣した。ヨーク公の主張は広く受け入れられており、ロンドンの南部で両軍は膠着した。ヘンリー6世は初めヨーク公の要求に同意したものの、マーガレットがサマセット公の逮捕を阻止すべく干渉した結果、3月に両者は和睦したがこれは形ばかりであり、実際は軍隊を解散しヘンリー6世に挙兵をしないことを誓わされたヨーク公が劣勢を強いられ、サマセット公は変わらず国王の下で専制を続けられた。こうして1453年までにサマセット公の影響力は回復し、ヨーク公は再び孤立、宮廷派は王妃懐妊が公表された事で結束力も増した。 だが、イングランドで政争が繰り広げられている間、フランスでのイングランド敗退は止まらず、1451年6月にアキテーヌの都市ボルドーがフランス軍に奪取され、ヘンリー2世の時代からイングランドの占領下にあったアキテーヌ公領がフランス側の手に陥ちた。1452年10月、サマセット公が挽回を期して派遣したシュルーズベリー伯ジョン・タルボット率いるイングランド軍はアキテーヌに進攻してボルドーを奪還し、いくらかの軍事的成功を収めたが、1453年7月17日のカスティヨンの戦いで敗北してシュルーズベリー伯は戦死、ボルドーは10月19日に再び奪われ、大陸におけるイングランドの拠点はカレーを残すのみとなっていた。この時点で百年戦争の事実上の終結とされている。 大陸領を最悪の形で喪失したことはサマセット公の評判を著しく下降させたばかりか、後ろ盾であったヘンリー6世の精神錯乱をもたらし政権基盤も弱体化、ヨーク公の逆襲が開始され内乱を招く元となった。そして、それは薔薇戦争の勃発とランカスター朝の滅亡という取り返しのつかない結末へと向かうことになる。
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