反乱とビザンツ帝国の介入とは? わかりやすく解説

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反乱とビザンツ帝国の介入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)

クレタ島の歴史」の記事における「反乱とビザンツ帝国の介入」の解説

ヴェネツィアクレタ島支配方針当初現地ギリシア人を全く考慮することなく宗教積極的な介入行わないことと不動産取り扱いについて公(総督)の裁量委ねるという曖昧な方針以外は具体性が無いものであり、当事者性に欠けたものとなっていた。ヴェネツィア人入植カンディア市を中心に行われ、他にレシムノン、カネア(ハニア)などの港湾都市入植地として整備された。これらの都市ヴェネツィア人多数派占めたが、14世紀以降にはギリシア人流入し多数派構成した平野部農村では正教会教会領や修道院領がヴェネツィア人入植者封地クレタ公の官吏地へと転用されて行った。そして交通困難な山間部では在地有力者層を通じた間接的な支配試みたヴェネツィア支配都市部では安定していたものの、山間部において初期からギリシア人たちの激し抵抗直面した1212年には既にアギオステファノス家による反乱発生した実際のところヴェネツィアもまた書類上手に入れたロマニアの領土ヴェネツィア取り分は「ロマニア帝国の8分の3」とも称された。)を実際に支配する能力欠いており、クレタ島征服注力するために、ヴェネツィア当局ヴェネツィア人たちに他のロマニアの「ヴェネツィア領の征服」を「個人責任で」行うように促し、あるいは現地実効支配する有力者を「封臣」とすることで名目的な支配確立するという形を取らざるを得なかった。そしてクレタ島反乱の鎮圧にはナクソス公(英語版マルコ1世サヌード(英語版)の助力が必要であったマルコ1世彼に従軍した騎士らは市民権を持つヴェネツィア人であったが、東方在住長くラテン皇帝にも臣従誓っており、本国との間には緩やかな協力関係しか持っていなかった。 ヴェネツィアはこの最初反乱8年もの歳月をかけて鎮圧したが、1228年には別のアルコン層による新たな反乱勃発したビザンツ帝国復興目指し各地成立した亡命政権1つニカイア帝国皇帝ヨハンネス3世はこの反乱介入し1235年33隻の武装ガレー船からなる艦隊クレタ島派遣したニカイア艦隊クレタ島西部スーダ港に上陸し首都ハンダクスを目指した。ヴェネツィア軍はボニファッチョの城塞でこれを撃退することに成功したが、ニカイア軍と反乱軍残党一部ゲリラ的抵抗継続し、更に1年渡ってヴェネツィア軍をかく乱した。 ニカイア帝国1261年コンスタンティノープル奪還しビザンツ帝国復興した後にもクレタ島奪還試みて介入行ったビザンツ皇帝ミカエル8世1262年アルコン層のコルタツィス家、メリッシノス家、スコルディリス家などがクレタ中西部のミュロポタモス(英語版)を拠点反乱を起こすと、ステンゴスという人物軍船1隻と兵員と共に派遣し、これに介入しようと試みた。しかしクレタ島アルコンたちは反乱起こしつつもヴェネツィアとも連絡維持し同時にミカエル8世動向窺いつつ、最後に優勢な方に従うべきだとする日和見的な姿勢応じた結局ミカエル8世何ら具体的な支援クレタ島反乱軍提供することはできず、ステンゴスの潜入アルコンたちによってヴェネツィア通報されヴェネツィアがこれに反応して鎮圧部隊派遣すると、アルコンたちはビザンツ帝国見限って続々ヴェネツィア和平を結び、ステンゴスは行方不明となった我らが(引用注ヴェネツィア元首当時)ペトロス・ツィアーニは(中略)、我々の裁判官助言を行う賢人たちとともにヴェネツィア市民勧めのもとに、我々の子孫に至るまで我らクレタ島全島を、我々の愛すべき忠実な存在であるあなた方ヴェネツィア男性たちに与えこととするクレタ島入植についての1211年9月のヴェネツィア・リアルト地区布告 余(ミカエル8世)の帝国は、帝国領域内のあらゆる場所で投獄され全てのヴェネツィア人を、どこに投獄されていたのかを問わず当人自由意思基づいて無条件釈放する同様にヴェネツィアドージェ政府は、クレタ島においてもコロン、モドン、ネグロポンテにおいても、投獄されていた「ギリシア人」を釈放する捕縛されていた者も同様にする。以上の前提に立つならば、上記の場所のどこかにいる「ギリシア人」の望み留まることであるなれば、ヴェネツィアから何ら危害加えられることなくそこに居ることが赦され、ビザンツ帝国へ行くことであれば自分たちの家族とともに去ることが許される1277年金印勅書文書 その後コンスタンティノープルジェノヴァ居留地のポデスタ(市長)グリエルモ・グエルチョがミカエル8世対す陰謀起こすなどしてビザンツ帝国ジェノヴァ共和国の関係が悪化すると、ミカエル8世ヴェネツィアとの関係改善確実なものとする必要に迫られ1268年金印勅書によってクレタ島ヴェネツィアによる「完全に妨げられることのない支配」が、ペロポネソス半島のモドン(英語版)、コロン対す支配とともに合意された。これと引き換え現地在住ギリシア人居住および移動の自由承認された。このことは以後ビザンツ帝国ヴェネツィアとの間で結ばれた条約において継続的に確認されている。1270年代入ってクレタ島反乱火種燻り続け、ゲオルギオス・コルタツィスとテオドロス・コルタツィスの兄弟反乱起こしていた。彼らの反乱1279年になって鎮圧されたが、その間ビザンツ帝国介入することはもはやなかった。コルタツィス兄弟ビザンツ帝国ヴェネツィアの間の条約恩恵を受ける形で、帝国領土へと亡命した1282年にはさらに島内有力なアルコン、アレクシオス・カレルギス(英語版)の反乱発生したヴェネツィアはこの反乱鎮圧することができず、1299年にアレクシオス・カレルギスとの間に講和結ばれた。この講和でアレクシオス・カレルギスには地域教会管轄権や、カレルギス家及びその配下人間ヴェネツィア人通婚など各種権利認められ以降彼はクレタ島山間地の支配者としてヴェネツィア当局との協力関係築いた。アレクシオス・カレルギスは「貪欲なカタルーニャ人傲慢なジェノヴァ人、尊大なバシレイオスビザンツ皇帝)」よりもヴェネツィア支配の方が好ましいと説いてヴェネツィア対す反乱抑制する姿勢示した。 アレクシオス・カレルギスの協力によって一時安定したヴェネツィア支配は、14世紀に入ると現地ギリシア人ヴェネツィア人入植者協力してヴェネツィア本国対抗するという新たな局面迎えた。これは定住して長いクレタ島ヴェネツィア人たちが現地人交わってクレタ化」し、本国とは異質な秩序構築しつつあったことや、特に本国戦費調達防波堤建設などのために課した負担対す共通の敵意によって結ばれており、1332年から1333年1341年から1348年の間に激し反乱発生した長期化した1340年代反乱ペストの蔓延によって沈静化したが、時間と共に現地ヴェネツィア人ギリシア人垣根低くなる一方本国クレタ島の間の距離は広がった14世紀後半に入るとこの傾向はより顕在化し、1363年ヴェネツィア本国が新税の導入布告すると、クレタ島ヴェネツィア人本国からの分離宣言しギリシア人と共に反乱起こした。これはサン・ティートの反乱英語版)(聖ティトゥス反乱)と呼ばれる大規模なものになった1366年ヴェネツィア反乱鎮圧したが、クレタ島荒廃し植民含めた復興追われた。

※この「反乱とビザンツ帝国の介入」の解説は、「クレタ島の歴史」の解説の一部です。
「反乱とビザンツ帝国の介入」を含む「クレタ島の歴史」の記事については、「クレタ島の歴史」の概要を参照ください。

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