反乱とその終息
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/02 16:54 UTC 版)
何年にもわたって「その場限りの」大衆集会が税と負債の軽減についてマサチューセッツ議会に請願を送り続け、抗議者達が判事による負債のかたの強制収用を妨げるために地元の裁判所を閉鎖した後で、行動が起こされた。マサチューセッツ邦知事のジェイムズ・ボーディンは農夫達の側に同情を寄せず、独立戦争時の将軍ベンジャミン・リンカーンが指揮する軍隊を派遣した。ボストンの商人達はこの軍隊に資金を寄付した。ボーディンはリンカーンのボストン民兵隊大部隊とさらにはウィリアム・シェパード将軍の民兵隊900名にスプリングフィールドの裁判所を守り、より多くの資産を押収できるようにした。反乱軍は1787年1月に1,000人以上が逮捕されて四散した。ボーディンは、法律の規制に従わなければアメリカが「無政府、混乱および隷属の状態」に成り下がると宣言した。 ペラム(en)のダニエル・シェイズは、リンカーンの下にあるボストンとスプリングフィールドの民兵隊4,000名が到着する前の1787年1月25日にデイがスプリングフィールド武器庫から武器を確保する提案を送った。デイが送った1月26日までには部隊の準備ができないという返事はシェイズに届かなかった。シェイズは援軍が来ないことを知らないまま武器庫に接近した。 シェパード将軍の兵士達は無給で食糧や適切な武器も無かった。シェパードはスプリングフィールド武器庫に収められている武器の使用許可を求めたが、陸軍長官ヘンリー・ノックスはそれが連邦議会に承認を得る必要のある事項であり、議会は休会中であることを理由にその要請を拒否した。シェパードの部隊はシェイズより先に武器庫に到着し、ノックスの返事を無視して、そこに蓄えられていた武器を徴発した。 シェイズとその部隊が武器庫に近づいた時、既にシェパードの民兵隊が待ち構えているのが分かった。シェパードは威嚇射撃を命じ、そこにあった2門の大砲が直接シェイズの部隊に発砲された。シェイズの部隊のうち4人が殺され、20人が負傷した。双方からマスケット銃の発砲は無かった。反乱者達はその隣人や仲間の退役兵が自分達に向かって発砲してくるとは思っても見なかったので、「殺人だ!」と叫んで北に逃げ出した。川の反対側ではデイの部隊も北に逃亡した。民兵隊は2月4日にピーターシャム(en)で反乱者の多くを捕まえた。3月までに武装した反抗は起こらなくなった。 シェパードはその上官に、許可無く武器庫を使わせたことと、武装紛争が終わった後では良い状態で武器を戻したことを報告した。 反乱者の中のある者は罰金刑、禁固刑さらには死刑を宣告されたが、1788年に全体の恩赦が認められた。告発された者達の大半は仮釈放されるか、死刑が減刑されたが、ジョン・ブライとチャールズ・ローズの2人だけは1787年12月8日に絞首刑に処された。シェイズ自身は1788年に仮釈放され、マサチューセッツに戻って1825年に貧しく無名のまま死んだ。
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