反乱と交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:52 UTC 版)
「トゥーサン・ルーヴェルチュール」の記事における「反乱と交渉」の解説
1789年にフランスで革命が勃発すると、1790年には「自由・平等・博愛」のメッセージがサン=ドマングにも届けられた。フランス国民議会はすべての人が自由で平等であると宣言し、フランス軍兵士はポルトープランスに上陸し黒人やムラートと友愛的に交わった。しかしサン=ドマングのプランテーション経営者は人権宣言の効力を否定した。そのため各地で奴隷の反乱が起こった。トゥーサンは(裕福な有色人種の)ヴァンサン・オジェ(英語版)の指導する有色人種の権利を叫んだ1790年10月の反乱には加わらなかった。それらは容赦なく弾圧された。1791年8月に北県で奴隷の反乱が起こるとトゥーサンも自分が動揺しているのに気付いた。 初めのうちトゥーサンは反乱による破壊や流血に対し否定的であった。彼は反乱の指導者たちと関係があったのは確実だと考えられているが、数ヶ月間彼の主人の奴隷たちやその農園を保った。反乱が拡大し白人が脅されるようになると、トゥーサンは主人とその家族をスペイン植民地サント・ドミンゴ総督領(英語版)の安全な場所へ彼自身の家族の手で逃し、自らは農園を焼き白人やムラートを殺している奴隷たちの拠点へ向かった。トゥーサンはその後すぐに反乱指導者たちの不適切さと白人の自由主義派と妥協しようとしていることを非難し始めた。そして経験を生かして彼らを権威的に指導しゲリラ戦の中で訓練した。1793年には彼はジョルジュ・ビアスーの仲間になっていた。トゥーサンはその中において階級を上げ、また彼が率いた黒人部隊は熱病にやられて指揮を欠いたヨーロッパの軍隊に対して驚くほど勝利を収めていった。 フランス革命戦争が起きると1793年にはスペインとフランスも戦争状態となり、黒人司令官たちはイスパニョーラ島の東3分の2を占めるサント・ドミンゴのスペイン人を支持した。トゥーサンはナイトに叙され、将軍としても認められ、並外れた軍事的能力を見せつけて、甥のモイズ、将来のハイチの君主となるジャン=ジャック・デサリーヌやアンリ・クリストフなどの有名な戦士たちを魅了した。また彼は敵の守備を開くことが得意であったのでルヴェルチュール(フランス語で「開く」)との別名が付けられ、これを彼は姓とした。8月29日には黒人指導者として、 兄弟と友よ、私はトゥーサン・ルヴェルチュールである。名前は恐らく君たちのお陰で知られるようになった。私は復讐を果たした。私はサン=ドマングに自由と平等に拠る統治を望む。私はこれを実現させよう。兄弟たち、私と共に闘う者たちよ、集まれ。同じ大義のために闘おう。 — 我らの非常に謙虚にして非常に従順な僕トゥーサン・ルヴェルチュール公益のための、国王軍将軍 と檄を飛ばした。この年の後半にイギリス軍はポルトープランスを含むサン=ドマングの沿岸部の大半を占領した。 北部でトゥーサンが勝利し、南部ではムラートがこれに続き、沿岸部をイギリス軍が占領したのでフランスも事態を認めざるを得なくなった。1793年パリの革命政府の代表部であったレジェ=フェリシテ・ソントナとエチエンヌ・ポルヴェレは黒人に反革命軍と外国部隊に勝利すれば自由を与えると約束した。1794年2月4日ジャコバン派の国民公会はこの命令を確認しフランス全領土での奴隷廃止を決めた。これを受けて、5月にはトゥーサンは共和主義者となりフランスに寝返った。イギリスとスペインが奴隷廃止を認めなかったためだった。トゥーサンの元同盟者への裏切りとスペイン人の虐殺は後に強く非難されることになった。トゥーサンの転向が決定的となるとサン=ドマングの司令官エティエンヌ・ラヴォーは彼に准将の位を与えた。イギリス軍はこれに慌て、スペイン人は追放された。 トゥーサンの増大する影響力の元でフランスの黒人及びムラート、白人の連合軍はイギリス軍とスペイン軍を破った。1794年1月にはトゥーサンの軍は1週間に7度イギリス軍を破った。トゥーサンは新しく出てきたパンシナのムラートの指導者とも争っていた。
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