反乱と以仁王の挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:38 UTC 版)
詳細は「治承・寿永の乱」を参照 6月に盛子、7月に重盛が相次いで死去したことを契機に、後白河法皇はその荘園・知行国を没収した。さらに清盛の娘婿・近衛基通を無視して、松殿基房の子・師家を権中納言に任じた。これに激怒した清盛は、11月14日に上洛して反乱を起こす(治承三年の政変)。宗盛はその直前の11日、厳島神社へ参詣に向かっていた。清盛に対する消極的な批判だったと思われるが、途中で呼び戻されて同道することになる。結果は、基房の解任・配流、反平氏公卿・殿上人・受領の大量解官、後白河法皇の幽閉・院政停止であり、それらの措置を済ませると清盛は福原に引き上げた。京都に残された宗盛は、相談もなく始まった反乱に困惑していたが後始末をつけねばならず、院近臣の追捕・所領の没収を行った。この時に以仁王の所領を没収したことが、以仁王の挙兵の直接的な原因となる。 翌治承4年(1180年)2月に安徳天皇が践祚して、高倉院政が開始される。院庁の執事別当には四条隆季が就任し、平時忠・藤原長方・吉田経房・土御門通親・日野兼光など実務に長じた貴族が、政務に未熟な高倉上皇を補佐することになった。宗盛は政権に直接的には加わらず、知盛が軍事の中枢ともいえる御厩別当に任じられている。譲位後の3月、高倉上皇は厳島神社に御幸するが、参詣に反対する園城寺・興福寺・延暦寺では、僧徒の中に後白河法皇・高倉上皇の身柄を奪取しようとする動きがあったため、宗盛は知盛・通盛・経正らに命じて警護を厳しくした。宗盛は福原まで供奉したが洛中不穏のため、清盛の命により京都へ引き返した。 厳島御幸も無事に終わり、4月には安徳天皇の即位式が行われるが、その直後の5月に以仁王の謀反が明らかになった。16日、以仁王を匿う園城寺との間で身柄の引渡し交渉が行われたが決裂となり、宗盛以下10人の大将による園城寺攻撃が決定する。ところがそのうちの一人だった源頼政が以仁王に合流し、延暦寺大衆300人の参加、さらには興福寺の蜂起といった情報も伝えられるなど、事態は一挙に深刻なものとなり洛中は混乱に陥ったが、26日、平氏軍が以仁王・頼政を討ち取ったことで乱は終息する。30日、追討の賞として宗盛の子・清宗が従三位に叙せられた。清盛の孫では最初の公卿であり、年長である平維盛・資盛(ともに重盛の子)を超えたことで、平氏の嫡流が小松家から宗盛に移ったことを示すものとなった。
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