松殿基房
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松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原 基房(ふじわら の もとふさ)。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。
注釈
- ^ 生年に二説あり、『国史大辞典』は『大日本史料』の没年記事から逆算して1145年とするが、『公卿補任』から逆算すると1144年である。
- ^ 『今鏡』では俊子の姉で兄・近衛基実の生母である源信子を母としている。
- ^ 『今鏡』(巻6)によれば、公教の没後にその父親であった太政大臣藤原実行の意向で北政所にしたと記されており、事実とすれば公教が没した永暦元年(1160年)7月から実行が没した応保2年(1162年)7月に婚姻が行われたことになる。
- ^ なお、『愚管抄』巻5によれば、三条家の人々は基房が花山院家の血を引く師家を鍾愛して後継者と定めた(結果的に三条家の血を引く隆忠が軽んじられる)ことに反発して基房と不仲になったという
- ^ なお、このとき近衛大将の代役を務めた基房の義弟藤原実房の『愚昧記』(仁安3年11月20日条)によれば、特に師長については「旧意・旧懐」があったとして、彼が父頼長の遺志を継いで基房から摂政の地位を奪おうとしていると批判している[1]。
- ^ 摂関の職に就いている公卿が遠流とされるのは史上初めてのことであり、『尊卑分脈』に「摂関人遠流例」との記載がある。
- ^ 義仲と基房の娘の婚姻を語るのは『平家物語』だけで、『玉葉』『愚管抄』には記述がないため、『平家物語』の創作とする見解もある。
- ^ 内大臣徳大寺実定が喪中であることを利用して、実定に迫って一時的に内大臣の地位を師家に貸し出させたのである(『玉葉』)。
出典
- ^ 樋口健太郎「藤原師長の政治史的位置-頼長流の復権と貴族社会-」『古代文化』第57巻第10号、2005年。/増補改稿:樋口健太郎「藤原師長論」『中世摂関家の家と権力』校倉書房、2011年。ISBN 978-4-7517-4280-8。
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