松殿基嗣とは? わかりやすく解説

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松殿基嗣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/22 01:41 UTC 版)

 
松殿 基嗣
時代 鎌倉時代
生誕 建久3年(1193年)
死没 不明
官位 従五位上左近衛少将左近衛中将正五位下従四位下従四位上正四位下従三位正三位従二位権中納言正二位中納言権大納言
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 松殿家
父母 父∶松殿師家
母∶藤原隆房の娘
兄弟 基嗣、実嗣、澄快、承澄、勝尊、澄空、慈弁、覚修、道源、勧誉、房性
正室∶平光盛の娘
基定、勝円、乗基、娘(二条良忠母)
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松殿 基嗣(まつどの もとつぐ、建久3年(1193年) - 没年不明)は、鎌倉時代公卿摂政松殿師家の息子。主な官位は正二位権大納言

経歴

建久3年1193年松殿師家の息子として生まれる。基嗣は有力な後継者ではあったが摂政関白に成らず、最終官位は正二位権大納言であった。[1]広橋経光の記載によれば、寛喜4年(1232年)3月16日、基嗣は平光盛の娘で、邦子内親王守貞親王の皇女)に仕える女房が日吉社に参詣するのを途中で待ち伏せて、数騎の軍勢で取り囲み、彼女を連れ去るという蛮行を起こし、権大納言を解任されたのである。このとき、父松殿師家は天王寺の別荘から急ぎ上洛して謝罪したが、九条道家は「一門之恥辱唯在此事」であるとして許さなかった。結果、基嗣とその子孫は、二度と公卿に戻ることなかった[2]。父の師家も同年に出家している。その後、仁治4年(1242年)に出家[1]した。

官歴

系譜

 
 
 
 
藤原隆房の娘
 
師家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平光盛の娘
 
基嗣
 
実嗣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
基定
 
乗基
 

脚注

  1. ^ a b c 松殿家 - Reichsarchiv ~世界帝王事典~
  2. ^ 樋口健太郎『摂関家の中世 藤原道長から豊臣秀吉まで』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2021年、149頁。 
  3. ^ a b 松殿家〔絶家・社家〕-公卿類別譜(公家の歴史)



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