松殿冬房とは? わかりやすく解説

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松殿冬房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/03 04:45 UTC 版)

 
松殿 冬房
東寺文書』より
時代 鎌倉時代中後期 - 室町時代前期
生誕 文永7年(1270年[1]
死没 康永1年6月26日1342年7月29日
改名 基定[2](初名)→冬房→円成(法名)
官位 正二位権中納言
主君 伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇[3]
氏族 松殿家
父母 父:松殿良嗣
母:岩蔵宮女房按察使局[4]
猶父:一条家経[5]
兄弟 鷹司伊氏、頼房、冬房持明院保藤、隆弁、禅弁、亀山院女房新大納言
良雅の娘[6]
忠冬(師基)、仁信、尋忠、寸王丸
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松殿 冬房(まつどの ふゆふさ)は、鎌倉時代中後期から室町時代前期にかけての公卿。松殿基定(まつどの もとさだ)とも。官位は正二位権中納言。父は正二位右近衛中将松殿良嗣。母は岩蔵宮女房按察使局。猶父は従一位摂政左大臣一条家経

経歴

松殿冬房(初名:基定)は侍従少将中将を経て参議に昇進し、前参議から権中納言に任ぜられた。その官歴を観察すると明らかなように、花園天皇在位期間中は順調に官位を昇進させたが、後醍醐天皇即位後は散位・前権中納言の状態が続き、延元元年(1336年)に冬房が出家するまで再任されることはなかった。

冬房は花園天皇の庇護を除けば、頼るべき有力な後見者が皆無に等しい状況にあった。実父・良嗣は冬房が五位少将であった時に既に死去し、猶父・家経も四位少将であった時に没していた。

さらに、冬房は他者よりも早く権中納言に昇進した者への不満から憤慨して辞官したが、それも結局のところ、花園天皇のご寵愛を笠に着ただけのことだったのかもしれない。当時の松殿家は、松殿基嗣が乱行により解官されるという不名誉な事件が生じた上に、基房師家忠房という中核人物が相次いで世を去り、従前の家格を維持することが困難な状況に陥っていた。冬房の死後、松殿家はさらに衰退の一途を辿った。

官歴

※日付=旧暦[7]

系譜

  • 父:松殿良嗣
  • 母:岩蔵宮女房按察使局 - 源雅親の孫娘
  • 妻:良雅の娘[12]
  • 生母不明の子女
    • 男子:忠冬 - 従二位・権中納言
    • 男子:仁信
    • 男子:尋忠
    • 男子:寸王丸

脚注

  1. ^ 生年は延元元年(1336年)の『公卿補任』「冬房」条に記載された没年月日と享年から逆算して得られたものである。
  2. ^ 弘安11年の叙爵以前の諱であった可能性がある。
  3. ^ 実際、冬房は後醍醐天皇の治世期間中、いかなる官職にも就任することがなかった。
  4. ^ 大納言源雅親の孫娘。
  5. ^ 松殿良嗣の娘が一条家経に嫁ぎ、一条内実と一条冬実を儲けた。この縁故により、冬房が家経の猶子となったのであろう。
  6. ^ 良雅は室町雅継(二条関白藤原師通の子・三条悪宰相藤原家政の男系子孫)と藤原経行女(権中納言藤原隆家の次男・水無瀬大納言藤原経輔の男系子孫)の間に生まれた子である。
  7. ^ 主に『公卿補任』を参照し、適宜表現を調整するとともに他の人物の官歴を補記しました。
  8. ^ 延慶元年の『公卿補任』「冬房」条には具体的な位階が記載されていないが、後に「従五位上」とあることから、この時点で冬房は従五位下に叙された、すなわち栄爵を受けたものと推測される。
  9. ^ 冬房の実父良嗣は正応4年(1291年)1月29日に死去した。したがって冬房はこの日をもって服喪を開始し、同年12月26日に除服を以て復任したことになる。
  10. ^ 此年における叙位の例:正四位下から従三位に昇叙された者として、以下の人物とその実父、叙位日(旧暦)を参考までに列記する。
    五辻忠氏(五辻宗氏の子) - 2月7日
    冷泉為相藤原為家の子) - 2月7日
    藤原教定(藤原教頼の子) - 2月7日
    中院顕孝(中院通行の子) - 2月7日
    五条季長(五条長経の子) - 3月4日
    源顕行(源成経の子) - 3月4日
    花山院忠藤(花山院師藤の子) - 3月4日
    平仲親(平時仲の子) - 5月9日
    大宮季衡西園寺公衡の子) - 9月20日
    洞院公賢洞院実泰の子) - 9月20日
    四条隆政(四条隆行の子) - 10月12日
    綾小路経賢(綾小路経資の子) - 10月12日
    松殿冬房(松殿良嗣の子) - 11月8日
    北畠親房北畠師重の子) - 11月8日
    小倉季雄小倉実教の子) - 11月14日
    堀川具親堀川具守の子) - 11月14日
    鷹司清雅(花山院定長の子) - 12月10日
  11. ^ 為藤は御子左為藤。冬房が文保元年(1317年)12月22日に権中納言に昇進した為藤について、その位階(正三位)が自己(従二位)の下位にあるにも関わらず、御子左家の家格が松殿家に劣るにもかかわらず官職昇進の速度が自己を上回る状況を認識し、不満を抱いて辞任に至った可能性が考えられる。
  12. ^ 詳細な家系は前掲の「妻」条に記す通りである。



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