洞院公賢とは? わかりやすく解説

とういん‐きんかた〔トウヰン‐〕【洞院公賢】

読み方:とういんきんかた

[1291〜1360]南北朝時代公卿有職故実明るく南北両朝から信任され左大臣太政大臣任じられた。「拾芥抄」「歴代最要抄」などの編著のほか日記園太暦(えんたいりゃく)」がある。中園入道相国


洞院公賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/02 05:52 UTC 版)

 
洞院 公賢
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正応4年8月13日1291年9月7日
死没 延文5年4月6日1360年4月21日[1]
改名 公賢→空元/遍昭光院
別名 中園相国
官位 従一位太政大臣
主君 伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇
氏族 洞院家
父母 父:洞院実泰、母:小倉季子(小倉公雄の娘)
兄弟 公賢、慈厳、公敏、守子、公泰実守
粟田光子(粟田光久の娘)
粟田光久の娘
小倉実教の娘
実世実夏ほか
養子:阿野廉子実守
特記
事項
園太暦』の著者
花押
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洞院 公賢(とういん きんかた)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。正式な名乗りは藤原 公賢左大臣洞院実泰の子。官位従一位太政大臣。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。有職故実の大家で、歴代天皇・将軍からたびたび諮問を受けた。また、公賢の日記『園太暦』は、中原師守師守記』と並ぶ最重要史料であり、重要文化財に指定されている。文芸にも造詣が深く、歴史物語増鏡』の作者の正体としては、二条良基に次ぐ有力候補である。養女で後醍醐天皇側室の洞院廉子(阿野廉子)を通じて、南朝後村上天皇の系譜上の祖父になる。

経歴

正応4年(1291年)誕生。父・実泰の蔭位により同年従五位下に叙され、数え7歳にして早くも正五位下侍従となる。文保2年(1318年後醍醐天皇の即位の際には皇太子邦良親王春宮大夫を務める。また、後醍醐天皇の側室阿野廉子の養父となっている。元徳2年(1330年内大臣に就任するが、翌年辞職。後伏見院の院執事として鎌倉幕府の滅亡を迎える。建武の新政が始まると内大臣に還任。翌年には右大臣に昇る。雑訴決断所頭人や伝奏なども兼ね、建武政権でも重きをなし、延元元年(1336年)には義良親王(のちの後村上天皇)の元服に際し、加冠役を務めたほどであったが、南北朝分立後は北朝に属し、北朝側の重鎮として光厳院の院執事となる。以後、たびたび辞意を表するが受け入れられず、左大臣太政大臣を歴任。

公賢は朝廷で高位高官の地位にあって朝政を主導しただけでなく、有職故実にも明るく学識経験も豊富だったため、天皇公家らから相談を受けることも多く、その日記『園太暦』はこの時代の朝廷の様々な人物の動きを知る上での貴重な基本史料となっている。観応2年(1351年)のいわゆる「正平の一統」においては北朝側の代表として交渉をまとめた。だが、南朝側による崇光天皇らの吉野への連行事件、続く文和2年(1353年)の後光厳天皇美濃国退避に同行しなかったことから天皇の疑心を買い、政治の中枢から外れていくことになる。「聖朝之半隠、当世之外物」(『魚魯愚鈔』所収「揚名介事」奥書)と記したのもこの時期のことである[2]。また、この時期に南朝に下った異母弟の実守を後継者から外して、実子の実夏を後継者としたものの、実夏と不仲になったために実守を帰参させて再び後継者にしようと図り、公賢没後の家門争いの原因となった[3]。延文4年(1359年)にようやく辞職が許されて出家、空元と号した。翌年薨御。

他の著書に『皇代暦』・『魚魯愚鈔』など。子に洞院実夏・実世。孫に『尊卑分脈』を編んだ洞院公定(実夏の子)がいる。また、鷹司師平一条経通の2代の関白を娘婿、左大臣近衛道嗣を孫婿(正室は実夏の娘、公賢没後に関白となる)として彼らの相談役としても活躍した。

官歴

※日付=旧暦

月日 年齡 出来事 備考
正応4年(1291年 1 誕生
正応5年(1292年 4月 2 従五位下
永仁2年(1294年 1月6日 4 従五位上
永仁4年(1296年 1月7日 6 正五位下東二条院御給
永仁5年(1297年 12月17日 7 侍従
永仁6年(1298年 1月5日 8 従四位下玄輝門院御給
4月9日 左少将
永仁7年(1299年 3月24日 9 従四位上
正安2年(1300年 1月11日 10 正四位下朝覲行幸、春宮権大夫実泰卿院司賞讓
嘉元3年(1305年 1月22日 15 陸奥権介
徳治1年(1306年 12月22日 16 左中弁左少将如元
徳治2年(1307年 3月2日 17 兼左宮城使
延慶1年(1308年 閏8月8日 18 喪母母入道正二位権中納言小倉公雄卿三女従二位季子
9月17日 止左中弁
9月20日 従三位
12月10日 左中将
延慶2年(1309年 9月22日 19 左大弁
10月15日 参議
延慶3年(1310年 1月5日 20 正三位伏見院御給
3月9日 権中納言参議大弁労二箇年
8月2日 兼左兵衛督
応長1年(1311年 4月15日 21 従二位
5月26日 右衛門督
正和1年(1312年 12月12日 22 左衛門督
正和3年(1314年) 1月2日 24 正二位朝覲行幸、伏見院御給
文保2年(1318年 3月9日 28 春宮大夫
8月13日 止左衛門督讓舍弟公敏卿
8月24日 権大納言
元応1年(1319年 9月5日 29 勅授帯剣
正中1年(1324年 34 大納言
嘉暦1年(1326年 3月20日 36 止春宮大夫依春宮薨去也
11月4日 右大将
12月24日 右馬寮御監
嘉暦2年(1327年 8月15日 37 喪父父従一位左大臣兼陸奥出羽按察使実泰公、号後山本左府
嘉暦3年(1328年 9月14日 38 除服出仕宣下
元徳2年(1330年 3月5日 40 内大臣無饗禄、右大将如元
3月22日 辞右大将
元弘1年(1331年 2月1日 41 辞内大臣
正慶2年(1333年 6月12日 43 還任宣下
建武1年(1334年 9月9日 44 上表依病也
12月17日 式部卿
建武2年(1335年 1月5日 45 従一位元徳元年春日行幸行事賞
2月16日 右大臣式部卿如元
3月6日 春宮
建武3年(1336年 10月10日 46 止春宮傅依春宮北国行啓也
建武4年(1337年 6月9日 47 辞退
7月12日 止之
康永2年(1343年 4月10日 53 左大臣無饗禄、不設賓筵
康永3年(1344年 2月21日 54 上表
被返下表
12月18日 上表、犹為当職参公事
貞和1年(1345年 9月6日 55 上表不許、犹当職也、被返下表
貞和2年(1346年 6月11日 56 辞退今度不及上表
貞和4年(1348年 10月20日 58 任大臣兼宣旨
10月22日 太政大臣今日設賓筵
貞和5年(1349年 12月14日 59 蒙輦車宣旨
12月25日 牛車宣旨
観応1年(1350年 3月18日 60 上表
正平6年(1351年 11月13日 61 南朝任左大臣、兼後院別当
正平8年(1353年 6月21日 63 南朝任太政大臣
延文4年(1359年 4月15日 69 出家法名空元
延文5年(1360年) 4月6日 70 自去比黄疸病悩

系譜

公賢の子女とその母一覧
「名」の欄は色で性別を区別します。例えば、男子女子。名前が斜体かつ灰色背景の欄は、養子縁組による子であることを示します。
生卒年 備考
洞院実世 1308 - 1358 家女房 北朝正二位権中納言、南朝従一位左大臣
洞院実夏 1315 - 1367 粟田光子(右馬頭粟田光久女、後醍醐天皇乳母、従三位) 北朝従一位内大臣
慈宗 西華門院中納言局(参議親世[4]女) 法印権大僧都
道守 家女房 法印権大僧都、成就院、早世
慈守 粟田光子(右馬頭粟田光久女、後醍醐天皇乳母、従三位) 法印権大僧都、北野別当、曼殊院門跡
桓恵 権大納言小倉実教 大僧正、実乘院門跡
境空 ? - 1394 嘉暦先坊少将局 竹林寺淨土寺二尊院住持、法位上人、隱遁号遣迎院竹林寺
実縁 粟田光子(右馬頭粟田光久女、後醍醐天皇乳母、従三位) 大僧都、興福寺東門院、早世
慈昭 ? - 1376 家女房高倉局(右馬頭粟田光久女) 僧正、北野別当、法性寺座主、一身阿闍梨、曼殊院門跡
杲守 僧正、石山座主、成就院
尋源 権僧正、石泉院
賢実 家女房小宰相局 法華宗
穎弁 家女房高倉局(右馬頭粟田光久女) 住高山寺北坊
示鏡 ? - 1448 二尊院住持、弁空上人、廬山寺明道上人資
桓忠 ? - 1379 家女房中納言局 権僧正、日吉権別当、実乘院門跡、早世
守快 僧正、杲守僧正資
女子(名不詳) 家女房(同実世) 徳大寺公清室、徳大寺実敦母、遁世法名正音
倫子(綸子) 粟田光子(右馬頭粟田光久女、後醍醐天皇乳母、従三位) 一条経通北政所、一条内嗣母、早世
吉子 鷹司師平北政所、遁世法名光真
女子(名不詳) 後伏見院三条局 比丘尼真当、守清庵
花園院兵衛督局 比丘尼理明、播磨安養院
波多野因幡入道通貞女 比丘尼恵林、景愛寺
家女房高倉局(右馬頭粟田光久女) 徽安門院東御方、崇光天皇後宮、安福殿女御、比丘尼了覚
西園寺実俊室、比丘尼理空、早世
亀谷源中納言基俊卿 禁中伺候、遁世法名退覚、野宮摂取院
家女房中納言局(同桓忠、守快) 近衛道嗣妾、久良親王養女
比丘尼理融、播磨安養院
阿野廉子 不詳 実右中将阿野公廉女、洞院公賢養女、後醍醐天皇後宮
洞院実守 参議高倉永康卿 北朝正二位大納言、南朝右大臣、実洞院実泰四男、依父命為舎兄公賢養子


脚注

  1. ^ 洞院公賢』 - コトバンク
  2. ^ 小川剛生『二条良基研究』(笠間書院2005年)P46
  3. ^ 松永和浩『室町期公武関係と南北朝内乱』(吉川弘文館2013年)P242-244
  4. ^ 甘露寺親長が加筆した『洞院系図』には確かに「参議親世」と記されている。しかしながら、『公卿補任』を調べてみると、「親世」という名前の公卿はわずか两人しかおらず、一人は天文16年に従三位に叙された非参議の藤原親世、もう一人は康安1年に従三位に叙された非参議の大中臣親世である。いずれも生涯を通して参議にはならなかった。したがって、この「参議親世」の正体については、さらに詳しく検討を要する。

参考文献

関連項目

先代
洞院実泰
洞院家
4代
次代
洞院実夏



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