洞院公宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/21 16:30 UTC 版)
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時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
生誕 | 仁治2年(1241年) |
死没 | 弘長3年3月21日(1263年4月30日) |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 洞院家 |
父母 | 父:洞院実雄、母:栄子(公審の娘) |
兄弟 | 公宗、小倉公雄、守恵、佶子、愔子、公守、季子、禖子、慈順、公尹、公方、公風、定勝、実修、公潤、公春、近衛基平室、鷹司基忠室、西園寺公蔭室、三条公親室、実子 |
子 | 英子[1] |
洞院 公宗(とういん きんむね)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。左大臣・洞院実雄の長男。官位は従二位・権中納言。
下焚きの情
『増鏡』によれば、公宗は同母妹の佶子に特別な思いを抱いていた——まるで燻ぶる暗火のように密やかに恋焦がれ[2]、兄妹の恋は人倫に悖ると知りながらも慕情を断ち切れず、終日涙に暮れていた[3]。佶子の入内(亀山天皇の后宮)の日が近づくにつれ、公宗は我を忘れたように放心状態で過ごし[4]、その様子を見た父・実雄はどうしたものかと心を痛めていたという。
経歴
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 正嘉2年(1258年)1月5日、従三位に叙せられる。同月7日、左中将は元の如し。同年8月7日、春宮権大夫を兼ねる。
- 正嘉3年(1259年)3月8日、正三位に昇叙。同年11月には春宮が践祚したため権大夫を止める。
- 正元2年(1260年)3月29日、駿河権守を兼ねる。
- 文応2年(1261年)2月8日、中宮権大夫を兼ねる。同年8月には皇后宮権大夫に遷る。
- 弘長2年(1262年)7月16日、参議を経ずに権中納言に任ぜられる。同年10月13日、皇后宮権大夫を止める。
- 弘長3年(1263年)2月19日、従二位に昇叙。同年3月21日、腫れ物の病により薨去。
系譜
脚注
参考文献
- 洞院公宗のページへのリンク