洞院公数
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洞院 公数(とういん きんかず、嘉吉元年(1441年) - 没年不詳)は、室町時代の公家。左大臣・洞院実煕の子。官位は正二位・権大納言。
経歴
文安4年(1447年)従四位下の叙位を受けると、左近衛中将を経て、宝徳3年(1451年)従三位に叙せられ、三位中将となった。
享徳3年(1454年)正三位に昇叙されると、康正2年(1456年)従二位に叙せられて中将を去るも、翌康正3年(1457年)左近衛中将に還任するが、これは洞院家として初めての例であった。
長禄2年(1459年)権中納言に昇任されて右衛門督を兼ねる。長禄4年(1461年)権大納言に任ぜられ、その後の寛正6年(1465年)正二位、文正元年(1466年)には左近衛大将を兼ねている。
文明2年(1470年)に官職を辞し、文明8年(1476年)伝来の家記・文書類を売却して出家。公数の出家により洞院家は断絶した。洞院家は先代の実熙の頃には、所領を失って既に経済的に困窮して「番々の輩の如く成り下がる事はできない」と嘆かせる状況であったことから、清華家としての家格を維持できる見通しを失ったために、公数は没落よりも自ら絶家させる選択をしたとする指摘がある[1][2]。一方で、同じ閑院流で昇進面でのライバルでもあった三条公敦は、『尊卑分脈』の西園寺通季の項の傍らに、公数は「放埒」の人であるためにこのような行為を行い、「不知法名」(出家したが法名は知らない)、「可洗耳」(耳を洗うべし=このようなことは聞きたくもないという意味)と記し、公数の行為を厳しく批判している。
その後、左大臣・西園寺実遠がその子公連を跡継ぎとして朝廷に申請・再興し、公連は文明14年(1482年)に叙爵している。
洞院家が所蔵していた記録・文書類は中院通秀らに売却され[3]、郢曲や内侍所御神楽の所作人は四辻季春が継承した[4]。通秀の手に渡った『園太暦』を、後に借り受けて書写した甘露寺親長の奥書には「申断絶一流之由、文書記六売却方々、其内也。」(洞院家を断絶させるために売却した)とあり、公数が敢えて洞院家を断絶させたもので、公連には家を継がせたくなかった意思が窺われる。なお、洞院家の所領に関する文書は公連に継承されたものの、その所領はすでに武士に横領されて不知行となっており、収入を見込めるものではなかった[1]。
官歴
『公卿補任』による。
- 文安4年(1447年) 正月5日:従四位下[5]
- 文安6年(1449年) 正月5日:正四位下[5]
- 宝徳3年(1451年) 日付不詳:従三位、左近衛中将如元
- 享徳元年(1452年) 3月23日:兼伊予権守
- 享徳3年(1454年) 正月5日:正三位
- 康正2年(1456年) 3月29日:従二位(去中将)
- 康正3年(1457年) 3月29日:還任左近衛中将(於家初例)
- 長禄2年(1459年) 8月8日:権中納言(基有辞替)
- 時期不詳:兼右衛門督
- 長禄4年(1461年) 8月15日:権大納言(教季辞替)
- 寛正6年(1465年) 正月5日:正二位
- 文正元年(1466年) 12月5日:兼左近衛大将
- 文明2年(1470年) 5月24日:辞官
- 文明8年(1476年) 2月:出家
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
参考文献
- 洞院公数のページへのリンク