甘露寺親長とは? わかりやすく解説

甘露寺親長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/26 05:26 UTC 版)

 
甘露寺親長
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 応永31年(1424年
死没 明応9年8月17日1500年9月10日
改名 めめ(幼名)→親長→蓮空(法名)
別名 一字名:鬼
官位 正二位権大納言
主君 後花園天皇後土御門天皇
氏族 甘露寺家
父母 父:甘露寺房長
兄弟 親長、良助、三条西公保
氏長元長、了淳、長深、親子、真盛、朝子、冷泉局
養子:利貞尼
花押
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甘露寺 親長(かんろじ ちかなが)は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿左大弁甘露寺房長の子。一字名は鬼。官位正二位権大納言

経歴

応永31年(1424年)、甘露寺房長の子として誕生。永享4年(1432年)、8歳の時に父を失い、甘露寺家の家督を継いでいた従兄弟の甘露寺忠長に養育される。幼名をめめ(めめまる)と言った[1]。永享6年(1434年)2月、忠長が6代将軍・足利義教の不興を買ったことで、家督を継ぐ。忠長は永享8年(1436年)5月に死去する。

永享9年(1437年)正月6日、叙爵し、親長を名乗る(『看聞日記』)。貞成親王によれば、囲碁蹴鞠が巧かった(『看聞日記』同年6月1日条)。翌永享10年11月28日、元服し(『看聞日記』)、本格的に官人としての活動を始める。甘露寺家を嫡流とする勧修寺流は、朝廷の実務を担う家柄であり、そのために記録や文書を受け継ぐことを重視し、「日記の家」とも称された。ところが、吉田経房の『吉記』や葉室定嗣の『葉黄記』、また叔父清長や先代忠長の日記等、甘露寺家相伝の記録や文書の多くは、忠長から親長に引き渡されずに忠長の母が保持しており、彼女がこの頃よりそれらを諸方に売却していることを、万里小路時房に相談している(『建内記』永享11年6月9日条)。また、嘉吉元年12月には、忠長遺児の郷長より、家督継承を巡って訴訟を起こされたが(『建内記』嘉吉1年12月26日条)、最終的に親長の家督は奪われなかった[2]

永享11年(1439年)6月以前に左衛門佐となり、嘉吉元年(1441年)、従五位上に叙される。嘉吉3年(1443年)9月、南朝の遺臣が内裏に侵入し、三種の神器を奪った事件(禁闕の変)が起きた際、自ら太刀を振るって後花園天皇を守護した逸話が知られる。

文安元年(1444年右少弁、同3年(1446年)正月20日、蔵人に任じられると共に、正五位上に昇る。同年12月には権右中弁に昇任。その後も累進し、享徳元年(1452年)3月23日、参議昇任と共に右大弁に転じる。権中納言であった康正2年(1456年)3月29日、陸奥出羽按察使に任ぜられ、以後明応2年(1493年)まで同職にとどまったため、按察使の名で呼ばれた。また長年、賀茂伝奏も務める。寛正6年(1465年)に権中納言を辞す。

応仁の乱による戦火で自邸が焼失したため、勧修寺鞍馬寺等へ避難するが、文明2年(1470年)にはそれらも焼け出され、家蔵の文書・日記類も焼失した。同年9月には帰京し、再出仕。既に前年には正二位に昇っていた。有職故実に通じていたことから、多くの公卿から指導を依頼され、たびたび官に推挙されたが、「高官無益なり」とかたくなに断ったという[3]

その一方で、文献の書写や部類記の作成に従事し、文明9年(1477年)には、後土御門天皇の命によって洞院公賢年代記皇代暦』を増補して天皇に献上した。その書写によって現代に伝わる文献も多く、特に『吉記』や洞院公賢の『園太暦』の現存する写本の大部分は、親長の手によるものである。自身の日記も残し(『親長卿記』)、同時代の貴重な史料となっている。また、文明15年(1483年)に派遣された遣明船に自ら投資して勘合貿易の利益を得る一方で、朝廷にも投資をさせて財政難を補う一助としたり、文明18年(1486年)には『源氏物語』の一筆書写を終えた記念に、『源氏物語』の巻名を歌題とする大規模な供養歌会を開くなど、公家文化の復興に努めた[4]

明応元年(1492年)、嫡子元長ら周囲の強い薦めにより権大納言への就任を受けたが、翌年に明応の政変に憤慨した後土御門天皇が退位を決意すると、これを諌め、その直後にすべての官を辞して出家。法名・蓮空を名乗る。明応9年(1500年)、美濃国で薨去。享年77。

官歴

系譜

甥(姉妹の子)に三条西実隆がいる。

脚注

  1. ^ 『看聞日記』に「めめ丸」「目々丸」、また「賀々丸」、『建内記』永享11年6月9日条異本に「女々」と見える。
  2. ^ 井原、2014年、P292-295
  3. ^ 『親長卿記』文明3年4月26日条。親長によれば、(応仁の乱最中で)洛中の治安悪化と政治情勢の混乱で拝賀も朝儀自体も行えないこと、そして洛中を歩行して通行する(牛車で参内できない)のは見苦しいことを挙げている(桃崎有一郎『中世京都の空間構造と礼節体系』思文閣出版、2010年、P284)。
  4. ^ 『親長卿記』文明18年2月13日条・『実隆公記』及び『十輪院内府記』同年2月19日条。今泉淑夫は文明18年2月19日の供養歌会が、先の文明15年の遣明船で渡航した息子・江南院龍霄が帰国した直後に行われていることに注目し、『源氏物語』の書写が異国に旅立った息子の無事を祈ったもので、歌会はその満願成就を祝ったものであったと推測している。
  5. ^ 親長の妻は「南向」と称され、『親長卿記』文明15年9月17日に石山寺参詣の折に親長の元に立ち寄った美濃持是院(斎藤妙純)の妻女を「南向親類」と記している(井原、2014年、P203)。

参考文献




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