帰京後とは? わかりやすく解説

帰京後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 00:02 UTC 版)

渡辺南岳」の記事における「帰京後」の解説

京都に戻ると四条柳馬場東に住し円山派奥文鳴森徹山)・四条派長山孔寅柴田義董岡本豊彦)の画家交友画作に励む。皆川淇園からは画の依頼受けている。また国学者の上秋成との交流知られる南岳大明国師像の模写依頼されたとき、秋成容貌国師似ている気づき、顔の写生行ったという。晩年失明したとも言われるが、定かでない文化10年正月突如病に倒れ死没享年48戒名は「釈南岳信士」。京都双林寺葬られた。京都門人中島来章松井南居がいる。それぞれ京都江戸で南岳の「三十三回忌追善書画会」を開催している。 現在確認されている作品数60点ほどで、流麗な筆致美人図図を得意とした。なお、尾形光琳敬慕したとされるが、その画風琳派風を見ることはできない。しかし、装飾的な画面構成その影響を見る向きもあり、江戸琳派絵師酒井抱一は、南岳死去の報を聞いて春雨に うちしめりけり 京の昆布」とその死を惜しむ句を詠んでいる。文久元年1863年)の書家絵師価格一覧表では、南岳15匁とある。

※この「帰京後」の解説は、「渡辺南岳」の解説の一部です。
「帰京後」を含む「渡辺南岳」の記事については、「渡辺南岳」の概要を参照ください。


帰京後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 23:50 UTC 版)

櫻の樹の下には」の記事における「帰京後」の解説

1928年昭和3年5月10日前後に「湯川屋」を引き払い東京市麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の下宿戻った梶井基次郎は、留守中に部屋貸していた北川冬彦同宿伊藤整東京商科大学生)と初対面した。 基次郎親しくなった伊藤整は、まだ発表していない作品の内容聞かされ、その素晴らしさ興奮した。その基次郎語りでは、人間をはじめ鹿・犬・馬などの死体満開の下に埋まっていて、その死体破れた腹からは腐った内臓見えつぶれた目からは液汁どろどろ流れ出し、人の足の切り口詳らかに描写されていた。 その物語のイメージは、湯ヶ島の「光線強い風景」の中で着想されたものだと基次郎語っていたという。伊藤は、それを『マルドロールの歌』(ロートレアモン伯爵作)の一部にでもありそうな「人の眼を覆はせるやうな」が惨澹たる一節だったとしている。 それは、桜の花の根や幹が透明になって、地面の下まで透いて見える、ということだの幹の中に在る数限りない細い管を、樹液が根の方から登って行くのが分る。そして根元地下には、色々な動物死骸埋まっている。それは鹿やや鼠や、色々な動物である。その動物腐敗した身体の方にの根が生きもののように伸びて行って毛細管がその死骸からまっている。そしてその腐った死骸から養分吸いとっては上の幹からへ、から花へと送っているのだ。「でなければあんなに桜の花美しわけはないんだ。それだから桜の花あんなに美しいんだよ」と梶井言った。私は聞いていて、彼の話に感嘆したすばらしい話だ、と私は思った梶井のその話を聞いていると、桜の花が私の見て来たのよりもずっと美しく思われ、それ自体生命爆発あるよう思われて来るのであった。 — 伊藤整若い詩人の肖像」 しかし8月中旬から体調悪化し毎日のように血痰吐いて呼吸困難歩けなくなるほど結核病状進んできたため、その様子を心配する友人達の強い勧めで、基次郎9月大阪市住吉区阿倍野99番地実家帰郷した詳細梶井基次郎#帝大中退後――大阪帰郷へ参照)。そして北川冬彦から詩誌『詩と詩論』に寄稿依頼されていたことから、伊藤整話していた物語改稿取りかかり、9月13日以降10月頃から本稿執筆始めた伊藤整は、12月発表された『櫻の樹の下には』を期待して読んだが、下宿で基次郎のその風貌と声で聞いた滋味」のある内容よりも短く整理されていたために、小説としての魅力薄れていると思ったまた、これが詩掲載されたことに基次郎はやや不満げで、しきりに「小説であること」を伊藤繰り返したという。

※この「帰京後」の解説は、「櫻の樹の下には」の解説の一部です。
「帰京後」を含む「櫻の樹の下には」の記事については、「櫻の樹の下には」の概要を参照ください。


帰京後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 14:38 UTC 版)

島義勇」の記事における「帰京後」の解説

島は同年3月25日帰京すると、4月2日大学少監に昇任。さらに侍従務めたこうした帰京後の昇進見ても、開拓使における島の解任理由は、かつて通説だった札幌建設費用巨額のぼったためではなく上述場所請負人持っていた利権との衝突によるとする説が現在は有力である(場所請負人たち明治3年1月東京刑部卿にも島に対す苦情送っている。また資金不足開拓使長官の東久世認識していた)。 明治5年1月1872年3月)に秋田県初代権令知事)となり八郎潟干拓施策打ち出すが、同年6月1872年7月)に退官となった明治7年1874年)に郷里佐賀において憂国党の党首担がれ江藤新平と共に佐賀の乱起こす敗れ鹿児島まで逃亡島津久光頼り大久保利通助命の旨を取り次いでもらうが受け入れられず、同年3月7日捕らえられ4月13日斬罪梟首となった享年53。墓は佐賀市立町来迎寺にある。 明治22年1889年)、勅令第12号(「憲法発布スルニ当リ大赦ヲ行ハシムルノ件」または「大赦令」とも)により大赦となり、大正5年1916年4月11日生前勲功対し従四位贈られた。

※この「帰京後」の解説は、「島義勇」の解説の一部です。
「帰京後」を含む「島義勇」の記事については、「島義勇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「帰京後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「帰京後」の関連用語

帰京後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



帰京後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの渡辺南岳 (改訂履歴)、櫻の樹の下には (改訂履歴)、島義勇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS