帰京後
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京都に戻ると四条柳馬場東に住し、円山派(奥文鳴・森徹山)・四条派(長山孔寅・柴田義董・岡本豊彦)の画家と交友し画作に励む。皆川淇園からは画の依頼を受けている。また国学者の上田秋成との交流が知られる。南岳は大明国師像の模写を依頼されたとき、秋成の容貌が国師に似ている気づき、顔の写生を行ったという。晩年は失明したとも言われるが、定かでない。文化10年正月、突如病に倒れ死没。享年48。戒名は「釈南岳信士」。京都双林寺に葬られた。京都の門人に中島来章・松井南居がいる。それぞれ京都と江戸で南岳の「三十三回忌追善書画会」を開催している。 現在確認されている作品数は60点ほどで、流麗な筆致で美人図・鱗魚図を得意とした。なお、尾形光琳を敬慕したとされるが、その画風に琳派風を見ることはできない。しかし、装飾的な画面構成にその影響を見る向きもあり、江戸琳派の絵師酒井抱一は、南岳死去の報を聞いて「春雨に うちしめりけり 京の昆布」とその死を惜しむ句を詠んでいる。文久元年(1863年)の書家・絵師の価格一覧表では、南岳は15匁とある。
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帰京後
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1928年(昭和3年)5月10日前後に「湯川屋」を引き払い、東京市麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の下宿に戻った梶井基次郎は、留守中に部屋を貸していた北川冬彦と同宿の伊藤整(東京商科大学生)と初対面した。 基次郎と親しくなった伊藤整は、まだ発表していない作品の内容を聞かされ、その素晴らしさに興奮した。その基次郎の語りでは、人間をはじめ鹿・犬・馬などの死体が満開の桜の樹の下に埋まっていて、その死体の破れた腹からは腐った内臓が見え、犬のつぶれた目からは液汁がどろどろ流れ出し、人の足の切り口も詳らかに描写されていた。 その物語のイメージは、湯ヶ島の「光線の強い風景」の中で着想されたものだと基次郎は語っていたという。伊藤は、それを『マルドロールの歌』(ロートレアモン伯爵作)の一部にでもありそうな「人の眼を覆はせるやうな」が惨澹たる一節だったとしている。 それは、桜の花の根や幹が透明になって、地面の下まで透いて見える、ということだ。桜の幹の中に在る数限りない細い管を、樹液が根の方から登って行くのが分る。そして桜の根元の地下には、色々な動物の死骸が埋まっている。それは鹿や犬や猫や猿や鼠や、色々な動物である。その動物の腐敗した身体の方に、桜の根が生きもののように伸びて行って、毛細管がその死骸にからまっている。そしてその腐った死骸から養分を吸いとっては上の幹から枝へ、枝から花へと送っているのだ。「でなければ、あんなに桜の花が美しいわけはないんだ。それだから桜の花はあんなに美しいんだよ」と梶井が言った。私は聞いていて、彼の話に感嘆した。すばらしい話だ、と私は思った。梶井のその話を聞いていると、桜の花が私の見て来たのよりもずっと美しく思われ、それ自体が生命の爆発であるように思われて来るのであった。 — 伊藤整「若い詩人の肖像」 しかし8月中旬から体調が悪化し、毎日のように血痰を吐いて呼吸困難で歩けなくなるほど結核の病状が進んできたため、その様子を心配する友人達の強い勧めで、基次郎は9月に大阪市住吉区阿倍野町99番地の実家に帰郷した(詳細は梶井基次郎#帝大中退後――大阪帰郷へを参照)。そして北川冬彦から詩誌『詩と詩論』に寄稿依頼されていたことから、伊藤整に話していた物語の改稿に取りかかり、9月13日以降の10月頃から本稿執筆を始めた。 伊藤整は、12月に発表された『櫻の樹の下には』を期待して読んだが、下宿で基次郎のその風貌と声で聞いた「滋味」のある内容よりも短く整理されていたために、小説としての魅力が薄れていると思った。また、これが詩欄に掲載されたことに基次郎はやや不満げで、しきりに「小説であること」を伊藤に繰り返したという。
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帰京後
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島は同年3月25日に帰京すると、4月2日に大学少監に昇任。さらに侍従を務めた。こうした帰京後の昇進を見ても、開拓使における島の解任理由は、かつて通説だった札幌建設の費用が巨額にのぼったためではなく、上述の場所請負人が持っていた利権との衝突によるとする説が現在は有力である(場所請負人たち明治3年1月、東京の刑部卿にも島に対する苦情を送っている。また資金不足は開拓使長官の東久世も認識していた)。 明治5年1月(1872年3月)に秋田県の初代権令(知事)となり八郎潟干拓施策を打ち出すが、同年6月(1872年7月)に退官となった。 明治7年(1874年)に郷里・佐賀において憂国党の党首に担がれ、江藤新平と共に佐賀の乱を起こすが敗れ、鹿児島まで逃亡。島津久光を頼り、大久保利通に助命の旨を取り次いでもらうが受け入れられず、同年3月7日捕らえられ、4月13日に斬罪梟首となった。享年53。墓は佐賀市金立町の来迎寺にある。 明治22年(1889年)、勅令第12号(「憲法ヲ発布スルニ当リ大赦ヲ行ハシムルノ件」または「大赦令」とも)により大赦となり、大正5年(1916年)4月11日、生前の勲功に対し従四位を贈られた。
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