本稿執筆とは? わかりやすく解説

本稿執筆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:00 UTC 版)

ある心の風景」の記事における「本稿執筆」の解説

1924年大正13年3月に、なんとか第三高等学校理科卒業できた基次郎は、東京帝国大学文学部入学し東京での下宿生活になったこの頃三高時代のような狂的〉な放蕩治まっており、同じく同大学に進んだ中谷孝雄外村茂と共に翌年1925年大正14年1月同人誌青空』を創刊し意欲的な文学活動スタート切っていた(詳細青空 (雑誌)#創刊号発刊参照)。 しかしながら、『青空』の反響はほとんどなく、大学試験成績不良創作活動にも苦吟した。第1号第2号に『檸檬』と『城のある町にて』を続けて発表して以降は、新たな作品原稿出来上がらず銀座界隈ご馳走食して贅沢品買って神経衰弱のような気分満たされない日々であった。 基次郎5月になっても『泥濘』、『ある心の風景』の元草稿格闘し京都時代下宿生活を描いた原稿貧しき生活より」(1924年)の書き直し着手して、さらに祇園乙部での体験に関する「心の影」(「朝鮮の鈴」「帰宅」と関連)と呼ぶ原稿書き上げ取り組んだが、先に泥濘』の方を仕上げ7月発表しその後別作品の『路上』『橡の花』『過古』などを発表したこの間三高時代から親しんでいた松尾芭蕉理解深め友人近藤直人と『奥の細道』について語り合うなどし、『芭蕉七部集』の『猿蓑』の「きりぎりすの巻」第33句の「昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ」から、第1章の〈喬はそんななか青鷺のやうに昼は寝てゐた〉という一節想起されることにもなった。 1926年大正15年1月頃から冬の寒さ持病結核が再び悪化し、基次郎は春頃からまた泥酔しをすることが度々あった。外村茂らと銀座カフェー・ライオン本郷百万石で酔っぱらった後、新橋橋げた渡り電車名札取って運転手追いかけられたり、走る市電めがけて、いきなり突進しようとしたりして、同人仲間らが慌てて止めたこともあった。 そうした親不孝振舞い体調悪化鬱屈した気分から三高時代心境蘇り前年途中で放棄していた原稿貧しき生活より」の焼き直し7月から取り組んだ次郎は、草稿帰宅」「朝鮮の鈴」、鴨川河原体験などをまとめた全体創作没頭し7月21日に『ある心の風景』の全原稿仕上がった。こうして、温めて来た過去断片が『ある心の風景』として結実し8月1日発行の『青空8月号(第2巻第8号通巻18号)に発表された。

※この「本稿執筆」の解説は、「ある心の風景」の解説の一部です。
「本稿執筆」を含む「ある心の風景」の記事については、「ある心の風景」の概要を参照ください。

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