本稿執筆
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1924年(大正13年)3月に、なんとか第三高等学校理科を卒業できた基次郎は、東京帝国大学文学部に入学し、東京での下宿生活になった。この頃は三高時代のような〈狂的〉な放蕩は治まっており、同じく同大学に進んだ中谷孝雄や外村茂らと共に翌年の1925年(大正14年)1月に同人誌『青空』を創刊し、意欲的な文学活動のスタートを切っていた(詳細は青空 (雑誌)#創刊号発刊を参照)。 しかしながら、『青空』の反響はほとんどなく、大学の試験も成績不良で創作活動にも苦吟した。第1号と第2号に『檸檬』と『城のある町にて』を続けて発表して以降は、新たな作品の原稿が出来上がらず、銀座界隈でご馳走を食して贅沢品を買っても神経衰弱のような気分は満たされない日々であった。 基次郎は5月になっても『泥濘』、『ある心の風景』の元草稿と格闘し、京都時代の下宿生活を描いた原稿「貧しき生活より」(1924年)の書き直しに着手して、さらに祇園乙部での体験に関する「心の影」(「朝鮮の鈴」「帰宅」と関連)と呼ぶ原稿の書き上げに取り組んだが、先に『泥濘』の方を仕上げ7月に発表し、その後も別作品の『路上』『橡の花』『過古』などを発表した。 この間、三高時代から親しんでいた松尾芭蕉の理解を深め、友人の近藤直人と『奥の細道』について語り合うなどし、『芭蕉七部集』の『猿蓑』の「きりぎりすの巻」第33句の「昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ」から、第1章の〈喬はそんななかで青鷺のやうに昼は寝てゐた〉という一節が想起されることにもなった。 1926年(大正15年)1月頃から冬の寒さで持病の結核が再び悪化し、基次郎は春頃からまた泥酔し無茶をすることが度々あった。外村茂らと銀座のカフェー・ライオンや本郷の百万石で酔っぱらった後、新橋の橋げたを渡り、電車の名札を取って運転手に追いかけられたり、走る市電めがけて、いきなり突進しようとしたりして、同人仲間らが慌てて止めたこともあった。 そうした親不孝な振舞いや体調悪化の鬱屈した気分から三高時代の心境が蘇り、前年途中で放棄していた原稿「貧しき生活より」の焼き直しに7月から取り組んだ基次郎は、草稿「帰宅」「朝鮮の鈴」、鴨川の河原の体験などをまとめた全体の創作に没頭し、7月21日に『ある心の風景』の全原稿が仕上がった。こうして、温めて来た過去の断片が『ある心の風景』として結実し、8月1日発行の『青空』8月号(第2巻第8号・通巻18号)に発表された。
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