中谷孝雄とは? わかりやすく解説

中谷孝雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/12 06:02 UTC 版)

中谷 孝雄(なかたに たかお、1901年明治34年)10月1日 - 1995年平成7年)9月7日)は、日本の小説家。妻は小説家の平林英子

来歴・人物

三重県一志郡七栗村(現・津市)出身[1]。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)卒業後、旧制第三高等学校に進学し、梶井基次郎飯島正浅野晃らと出会う。平林英子とは三高在学中に出会い、2人が既に同棲をしていた下宿へ友人であった梶井基次郎大宅壮一が遊びに訪れた[2][3]

1924年(大正13年)に東京帝国大学文学部独文科に進み、一旦離れていた平林英子と10月から同棲を再開し結婚。翌1925年(大正14年)1月に、同校の梶井基次郎、外村茂らと同人誌『青空』を創刊した[4][5]

佐藤春夫に師事し、1935年昭和10年)には保田與重郎亀井勝一郎木山捷平らと『日本浪曼派』を創刊(後に太宰治檀一雄らも参加)。1937年(昭和12年)に初の作品集『春の絵巻』を刊行して以来、執筆活動に専念。1968年(昭和43年)に『招魂の賦』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。1974年(昭和49年)春、勲四等瑞宝章受勲。1977年(昭和52年)、大津義仲寺・無名庵庵主となる[6]

1992年(平成4年)、飯能市に中谷孝雄文学館が完成された。1975年(昭和50年)に講談社より『中谷孝雄全集』(全4巻)刊行され、没後1997年(平成9年)に新学社より『中谷孝雄全集』(全3巻)が刊行された。墓所は竜ヶ丘俳人墓地

弟子に駒田信二がいる。

著作

  • 春の絵巻 赤塚書房 1937
  • くろ土 赤塚書房 1939
  • 滬杭日記 砂子屋書房 1939
  • むかしの歌 ぐろりあ・そさえて 1939
  • 春 短篇小説傑作集 人文書院 1940
  • 戦争文学の新研究 日本文章学会 1940
  • 死とその周囲 河出書房 1940
  • 時代祭 随筆 文明社 1941
  • 清貧論 白馬書房 1942
  • 旅情 天理時報社 1942
  • 梁川星巌 小学館 1943
  • 野村望東尼 三宝書院 1944
  • 懐しき青春 長篇小説 弘文社 1949
  • 日本女性史 ダヴィッド社 1958
  • 業平系図 河出書房新社 1959
  • 梶井基次郎 筑摩書房 1961、筑摩叢書 1969
  • 愛にひらく 冬樹社 1965
  • のどかな戦場 東都書房 1967
  • 招魂の賦 講談社 1969、講談社文芸文庫 1998
  • 京は人を賤うす 作品集 皆美社 1969
  • 同人 青空日本浪曼派 講談社 1970
  • 故郷 永田書房 1973
  • わが陶淵明 筑摩書房 1974
  • 中谷孝雄全集 第4巻 講談社 1975-1976
  • 旅の詩人芭蕉 実業之日本社 1977、永田書房 1989
  • 孫子(訳・解説)教育社 中国古典兵法書 1987、新版・ニュートンプレス 2002
  • 無名庵日記 朝日書林 1991
  • 中谷孝雄全集 3巻組 新学社 1997
  • 尾崎士郎/中谷孝雄 新学社 近代浪漫派文庫 2004

脚注

  1. ^ 「第一部 第一章 同人たち」(柏倉 2010, pp. 9–21)
  2. ^ 平林英子「梶井さんの思ひ出」(評論 1935年9月号)。『「青空」の人たち』(皆美社、1969年12月)。別巻 2000, pp. 46–52に所収
  3. ^ 「第五章 青春の光と影――三高前期」(大谷 2002, pp. 74–104)
  4. ^ 平林英子「梶井基次郎」(『青空の人たち』皆美社、1969年12月)。別巻 2000, pp. 144–153に部分所収
  5. ^ 「第七章 天に青空、地は泥濘――本郷と目黒にて」(大谷 2002, pp. 137–161)
  6. ^ 年譜『招魂の賦』講談社文芸文庫

参考文献

外部リンク


中谷孝雄

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梶井基次郎」の記事における「中谷孝雄」の解説

三高同年入学中谷は文乙。寄宿舎北寮の同じ第5室に入り知り合う無頼中谷理科の基次郎に「文学をやれ」と勧めた2人とも寄宿舎出た後、基次郎中谷一時期距離を置いたこともあるが、紆余曲折喧嘩をしつつも友好温めた。『青空』の創刊メンバー風貌タイプが基次郎似ているため、寄宿舎では、中谷が「大きいゴッチャン」、少し都会的な次郎が「小さいゴッチャン」と呼ばれ(基次郎の方が背丈肩幅もあったが)、喫茶店女性店員などから「邯鄲兄弟」と呼ばれていた。「邯鄲」という名前の坊主枕のような餅菓子売られていて、酒飲み辛党ながらも、基次郎故事の「邯鄲夢の枕」と呼んで時折食べていたという。中谷下戸甘党だった。

※この「中谷孝雄」の解説は、「梶井基次郎」の解説の一部です。
「中谷孝雄」を含む「梶井基次郎」の記事については、「梶井基次郎」の概要を参照ください。

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