創刊号発刊とは? わかりやすく解説

創刊号発刊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:53 UTC 版)

青空 (雑誌)」の記事における「創刊号発刊」の解説

10月末、同人6人は原稿持ち寄った巻頭には、梶井基次郎の「檸檬」を掲載することが決まった発売所は帝大前の郁文堂書店依頼したが、印刷代が高額予算超えたため、そこでの印刷断念した。なかなか適当な印刷所が見つからない中、稲森宗太郎早稲田友人寺崎浩父親岐阜刑務所所長をしていた伝手で、刑務所作業部で印刷してもらえることになった11月末、外村茂忽那吉之助帰郷途中岐阜刑務所原稿渡した校正難し漢字植字などの事務連絡郵便往復して手間取り創刊号発行新年に延ばすことになった雑誌刷り上がり12月26日外村梶井中谷孝雄の3人は夜行列車岐阜に向った。27日早朝到着した3人は長良川で顔を洗い岐阜刑務所作業所で『青空300部を受け取った雑誌始めて見たときは流石に心がときめいた表紙線で枠を取り、更にそののなかに二本線を入れて三つ区分し中央の青空縦に大きく墨で印刷してその下に小さく 一 と入れてある。そして右側一九二五年一月、左のには青空社とある。ただそれだけ簡素な表紙であつたが、金のかかつてゐない割にはよくできてゐた。 — 中谷孝雄梶井基次郎半分部数外村茂実家送付し残り半数携えて3人は京都に向った。彼らの劇研究会の後輩浅沼喜実、浅見篤浅見淵の弟)、北神正、熊谷直清老舗鳩居堂息子)、本盟夫、新加入の淀野隆三(文甲3年)、龍村謙(文乙2年)が販売協力のため円山公園にある料亭あけぼの」で待っていた。 1925年大正14年1月1日同人誌青空創刊号第1巻第1号通巻1号)が30銭で販売された。創刊号掲載作は、「檸檬」(梶井基次郎)、「信」(忽那吉之助)、「暑熱」(小林馨)、「折にふれて」(蠑螈子)、「母の子等」(外村茂)、「初歩」(中谷孝雄)だった。蠑螈子は稲森宗太郎ペンネームで、稲森作品だけ短歌11首)で、あとは小説だった。 装幀表紙デザイン)は忽那吉之助が手がけ、巻末には、帝大正門前の果物店、白十字堂麻布区キネマ旬報社広告掲載されていた。果物店と白十字堂広告は、基次郎稲森取って来たものだったキネマ旬報社は基次郎三高時代からの友人飯島正映画評書いていた出版社である。 『青空創刊号文壇作家には寄贈しなかった。文学界認められたいという思いはあるものの、物欲しげ根性避けたく、修業の身のうちは馬鹿と付くほどの頑なさや潔癖さを持つべきとの気概美意識があった梶井基次郎が、「彼らは書店で(30銭を払って買って読む義務がある」と主張したからだった。同人の間にも梶井言葉感動し同調する気風があった。 しかし書店置いた無名同人雑誌青空創刊号は、京都では1冊も売れず、やっと銀座で1冊売れて、それで祝杯をあげたほどだった。創刊号を手にとって読んだのは、同人三高劇研究会の面々、その他、見知らぬ数人だけという結果だった。 『青空創刊第1号はほとんど知られることなく終り、6人が集まった同人合評会では中谷孝雄梶井基次郎の「檸檬」を批判し小説ではなく短歌発表した稲森宗太郎に不満を述べるなどした。数日後稲森同人脱退申し出た。健康上の理由もあった稲森は、短歌一筋生きること良しとした。

※この「創刊号発刊」の解説は、「青空 (雑誌)」の解説の一部です。
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