創刊号発刊
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10月末、同人6人は原稿を持ち寄った。巻頭には、梶井基次郎の「檸檬」を掲載することが決まった。発売所は帝大前の郁文堂書店に依頼したが、印刷代が高額で予算を超えたため、そこでの印刷は断念した。なかなか適当な印刷所が見つからない中、稲森宗太郎の早稲田の友人・寺崎浩の父親が岐阜刑務所の所長をしていた伝手で、刑務所の作業部で印刷してもらえることになった。 11月末、外村茂と忽那吉之助が帰郷の途中に岐阜刑務所に原稿を渡した。校正や難しい漢字の植字などの事務連絡が郵便で往復して手間取り、創刊号発行は新年に延ばすことになった。雑誌が刷り上がり、12月26日、外村と梶井と中谷孝雄の3人は夜行列車で岐阜に向った。27日の早朝、到着した3人は長良川の水で顔を洗い、岐阜刑務所作業所で『青空』300部を受け取った。 雑誌を始めて見たときは流石に心がときめいた。表紙は朱線で枠を取り、更にその枠のなかに二本の朱線を入れて三つの欄に区分し、中央の欄に青空と縦に大きく墨で印刷してその下に小さく 一 と入れてある。そして右側の欄に一九二五年一月、左の欄には青空社とある。ただそれだけの簡素な表紙であつたが、金のかかつてゐない割にはよくできてゐた。 — 中谷孝雄「梶井基次郎」 半分の部数を外村茂の実家に送付し、残りの半数を携えて3人は京都に向った。彼らの劇研究会の後輩の浅沼喜実、浅見篤(浅見淵の弟)、北神正、熊谷直清(老舗鳩居堂の息子)、楢本盟夫、新加入の淀野隆三(文甲3年)、龍村謙(文乙2年)が販売協力のため円山公園にある料亭「あけぼの」で待っていた。 1925年(大正14年)1月1日、同人誌『青空』創刊号(第1巻第1号・通巻1号)が30銭で販売された。創刊号の掲載作は、「檸檬」(梶井基次郎)、「信」(忽那吉之助)、「暑熱」(小林馨)、「折にふれて」(蠑螈子)、「母の子等」(外村茂)、「初歩」(中谷孝雄)だった。蠑螈子は稲森宗太郎のペンネームで、稲森の作品だけ短歌(11首)で、あとは小説だった。 装幀(表紙デザイン)は忽那吉之助が手がけ、巻末には、帝大正門前の萬藤果物店、白十字堂、麻布区のキネマ旬報社の広告が掲載されていた。萬藤果物店と白十字堂の広告は、基次郎と稲森が取って来たものだった。キネマ旬報社は基次郎の三高時代からの友人・飯島正が映画評を書いていた出版社である。 『青空』創刊号は文壇作家には寄贈しなかった。文学界に認められたいという思いはあるものの、物欲しげな根性は避けたく、修業の身のうちは馬鹿と付くほどの頑なさや潔癖さを持つべきとの気概と美意識があった梶井基次郎が、「彼らは書店で(30銭を払って)買って読む義務がある」と主張したからだった。同人の間にも梶井の言葉に感動し同調する気風があった。 しかし書店に置いた無名の同人雑誌『青空』創刊号は、京都では1冊も売れず、やっと銀座で1冊売れて、それで祝杯をあげたほどだった。創刊号を手にとって読んだのは、同人と三高劇研究会の面々、その他、見知らぬ数人だけという結果だった。 『青空』創刊・第1号はほとんど知られることなく終り、6人が集まった同人合評会では中谷孝雄が梶井基次郎の「檸檬」を批判し、小説ではなく短歌を発表した稲森宗太郎に不満を述べるなどした。数日後、稲森は同人脱退を申し出た。健康上の理由もあった稲森は、短歌一筋に生きることを良しとした。
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