文壇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 01:44 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2013年11月)
( |
![]() |
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2013年11月)
|
文壇(ぶんだん)とは、作家、文芸評論家、雑誌編集長、出版社の編集者など文学・文筆活動を取り巻く人たちのつながりと付き合いの世界のこと。
文士という言葉が通用した時代には、頻繁に使われた言葉。文壇バーなどというものもあった。こうした作家たちの付き合いで、年一回、親睦を兼ねて、出版社の肝いりで「文士劇」なるものも上演された。
類語である楽壇(音楽業界)、画壇(美術業界)が、ポピュラーミュージック、流行歌や商業美術、マンガを含まないニュアンスで用いられることが多いのに対し、文壇という言葉には大衆文学を排除する性格はほとんどない。
文壇の起こり
文壇が成立したのは、一般に明治20年代に尾崎紅葉を棟梁とする硯友社に始まるとされている。尾崎紅葉という有能な「親方」が中心となり、仲間の作家を集め、将来のある「弟子」を養ったことで、交友関係、師弟関係、恩顧関係、取引関係による閉鎖的なギルド組織が形成されることとなった。文学的主張や思想を同じくはしていないが、漠然とした文学共同体を作り、内部的に統制して結束を固め、ジャーナリズムが発達するとこれと結び、職業上の利益と独立とを擁護した[1]。
尾崎と同時期に活躍した作家の内田魯庵は、これを裏付けるように以下の文章を残している。
当時文壇は全く旧作家に飽いて新作家を迎うるに鋭意していたから、多士済々たる硯友社は忽ち章魚の足のように八方に勢力を伸ばし、新聞社に雑誌社に出版人にそれぞれ多少の関係を附けざるはなかった。その上に固く結束して互に相援引し、応援するにも敵対するにも一斉に起って進退緩急の行動を侶にした。歩武の整然として訓練の能く行届いたは有繋に紅葉の統率の才の尋常でなかった事が解る。硯友社はこの全体の力で常に文壇に衝ったから、一時硯友社はあたかも政友会が政界に跋扈したように文壇を壟断して、操觚者も出版者も新聞雑誌社も硯友社に拠らざれば文壇の仕事は何一つ出来ないような形勢となった。当時の硯友社は実に政友会であって紅葉の手腕は原敬以上であった。 — 内田魯庵、硯友社の勃興と道程
脚注
- ^ 坪内祐三「文壇の成立と崩壊」『近代日本文化論3 ハイカルチャー』岩波書店、2000年。ISBN 4-00-026333-1。
関連項目
文壇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 06:40 UTC 版)
「ロバート・J・ソウヤー」の記事における「文壇」の解説
1998年、SFWAの会長に立候補し、前会長のノーマン・スピンラッドを破って当選した。しかし彼の改革路線には反対の声が多く寄せられ、任期半ばで副会長のポール・レヴィンソンに会長の座を譲った。辞任の前にソウヤーが公約としていた投票が行われ、SFWAの細則や手続きが大きく変わった。特に入会条件が変更され、北米以外での本の売り上げやネット上での売り上げが考慮されるようになった。また、ネビュラ賞に最優秀脚本賞が創設された。 他にも、カナダ推理作家協会、国際ホラー作家協会(英語版)、カナダ著作家協会(英語版)、カナダ脚本家組合(英語版) でも活動してきた。
※この「文壇」の解説は、「ロバート・J・ソウヤー」の解説の一部です。
「文壇」を含む「ロバート・J・ソウヤー」の記事については、「ロバート・J・ソウヤー」の概要を参照ください。
「文壇」の例文・使い方・用例・文例
- その純文学者の登場は文壇に騒ぎを巻き起こした。
- 社交界の花[文壇の大御所たち].
- 既成学会[文壇].
- 文学界, 文壇.
- 彼は今日の文壇で二流作家だ.
- 氏はその小説を書いて一躍文壇に名を成した.
- 彼は当時の文壇を風靡する文豪だった.
- 文壇の巨擘
- 彼は文壇の驍将としてもてはやされている
- 文壇の寵児
- 文壇の流行児だ
- 彼は文壇の明星だ
- 文壇に立つ
- 文壇に立っている人々
- 文壇の将星、文壇の寵児、文壇の老将、文壇の驍将
- 文壇を設ける
- 本紙には文壇の設けあり
- 彼は文壇の驍将{ぎょうしょう}としてもてはやされている
文壇と同じ種類の言葉
- >> 「文壇」を含む用語の索引
- 文壇のページへのリンク