改革路線
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FIA会長になる前の実績としては、グループCを滅ぼした人間と言われ、今後のF1の将来を心配されるなか、就任した。 FIA会長就任当初から「安全性の改善」と「コスト削減」を謳い、モータースポーツ界の制度改革を推進していった。メーカーとチーム間の技術開発競争を問題視し、マシンの性能向上や開発費用の高騰に歯止めをかけるためレギュレーション変更を重ねてタイヤ、エンジン、電子制御装置などの性能を規制を実施している。 F1において彼に関する象徴的な出来事は、1993年シーズン中にアクティブサスペンションなどのマシン設計に影響を与える分野のレギュレーション変更を決定し、1994年シーズンからその導入を行うと決定したことである。これについて、懸念があったにもかかわらず導入を断行。その結果、1994年シーズン序盤の負傷者の多発並びにアイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーの事故死を招いた遠因となってしまった。また、彼の事故死の後、準備期間の確保が難しいにもかかわらず、安全性向上のための追加のレギュレーションの導入を強行したが、導入後に事故発生したこともあり、競技者側と衝突し一時的な緊張関係を生むなど、そのリーダーシップや規制の効果は一定の評価を得ているものの、競技者側の意向を汲まない強硬姿勢が幾度となく反発を招き、現在においてもこの時のFIAは失敗であったと批判されることも少なくない。 2005年アメリカGPではタイヤの安全性に問題を抱えたミシュラン側の「シケイン設置案」要請を受けたがFIA側は「速度を監視する事と速度過剰で処罰を科す案」を双方提示したが話し合いがつかず、その結果ミシュラン系チームの撤退(自主リタイア)という異常な事態が起きてしまった。 改革路線をコスト削減と安全性向上と言う方向性で行ったことは評価されているが、行き過ぎたコスト削減の発想とメーカーなどを無視した自己流規格(2レース・エンジン規定、エンジン開発のホモロゲーション化、エンジン規格の統一など)を押し付ける場面が頻発し、エンジンメーカーにとって魅力的とは言えない規定を導入したことが反感を買う部分もあった。また、現在のF1もその路線を継承している状況なため、ファンからは以前よりレースの魅力がなくなったなどの批判をされることもある。そのため、自動車メーカー系チームへの厳しい姿勢からメルセデス・ベンツ、ルノー、BMW、ホンダ、トヨタらがGPMAを結成して新シリーズ発足を図ったこともあった。 以上のことから、2009年のFIA会長選挙ではアメリカ自動車協会(AAA)・日本自動車連盟(JAF)・ドイツ自動車連盟(ADAC)などがアリ・バタネンを推し、モズレーらが推すジャン・トッドと激しい選挙戦を繰り広げたことから、少なくとも競技者側は不満を抱えていることが浮き彫りとなった。
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