改革者としての活動
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「アビラのテレサ」の記事における「改革者としての活動」の解説
彼女が内部の原動力を、外部への実際的な表現としようと考えたきっかけは、アルカンタラのペテロである。1560年の初頭、彼は偶然創立者としての彼女と知り合った。そして、彼女の精神的な指導者・カウンセラーとなった。彼女はその時、カルメル会女子修道院を創立し、彼女が気付いた御托身修道院(Cloister of the Incarnation)のだらしなさを改革しようと決心した。Guimara de Ullonという金持ちの友人の女性が、資金を提供した。 1562年に創立され、聖ヨセフと名付けられた新しい修道院の明らかな貧しさは、最初はアビラの一般市民や教会関係者たちの間でスキャンダルを沸騰させた。そして、チャペルのついたその小さな修道院は弾圧の危機にさらされた。しかし、最低限の好条件の担保と幸運の影響を受けただけでなく、有力な勲爵のような後援者たちがそれまでの敵意を翻して支援する側に回った。 1563年5月、テレサが新しい修道院へと移転した時、彼女は明らかな貧しさと豊かさの拒絶という最も重要な原則について、教皇の支持を取り付けた。その原則を彼女は「規約」という形で明確にするようにしていった。彼女の計画は今までのより厳格な規律を復興し、新しい規則によって補足することだった。新しい規則とは例えば、毎週の礼拝で指示されるむち打ちの儀式という3つの懲罰や、全員靴を履かないか、あるいは、靴を履く代わりに革か木のサンダルを使用することなどである。最初の5年間は、テレサは宗教的隠遁生活を続け、著作活動に従事した。 1567年、彼女はカルメル会の長、ルベオ・デ・ラヴェンナ (Rubeo de Ravenna) の特別な許しを得て、彼女の指示で複数の新しい修道院を創立した。そしてこの努力を続ける中で、後に彼女はほとんど全てのスペインの地方を訪問する長い旅を行った。これらの旅を続ける中で、彼女は『創立の書』(Libro de las Fundaciones, a late ed., Madrid, 1880; Eng. transl., Book of the Foundations, London, 1871) を著した。1567年から1571年にかけて、改革修道院がメディナ・デル・カンポ、マラゴン、バリャドリド、トレド、パストラナ、サラマンカ、アルバ・デ・トルメスに建てられた。 彼女の精神を手本にして、十字架のヨハネによって男子修道士に向けた同様の運動が始められた。テレサのもう一人の友人、ヘロニモ・グレシアン(Geronimo Grecian, 彼はアンダルシアでカルメル会の旧来の修道規則の視察官、ローマ教皇庁の長官、そして後にはテレサによる改革派の大司教を務めた)は、セゴビア (Segovia, 1571年)、ベガス・デ・セグラ (Vegas de Segura, 1574年)、セビリャ (Sevilla, 1575年)、カラバカ・デ・ラ・クルス(Caravaca de la Cruz, ムルシア地方、1576年)に修道院を創立するにあたって、彼女に強力な支援を行った。そしてその一方、徹底的な神秘主義者のヨハネは、教師・説教師としての権力によって、この運動の精神生活を普及させた。 1576年、テレサやその友人たち、そして彼女たちの改革に対抗する旧来の保守的なカルメル会の修道士たちの側から、一連の迫害が始まった。ピアチェンツァで行われた教座聖堂参事会の例会で採用された決議案の骨子に従って、カルメル会の「戒律決定者たち」は、新たに修道院を創立することを全面的に禁じたのである。修道会の総長は、創立した修道院の一つで自主的に隠遁生活を送るように彼女を追いやった。彼女はそれに従い、そして、トレドにある聖ヨセフの修道院で過ごす道を選んだ。彼女の友人と彼女に従っていた人々は、より規模の大きい裁判にかけられることになった。 数年の後、ついに彼女の判決がスペイン王フェリペ2世の書面によって通告され、彼女は安堵を得ることができた。結果として、1579年、彼女やグレシアンやその他の人々に反対して起こされた宗教裁判の前の出来事は、なかったことになった。そして、改革の伸張は少なくとも消極的な意味で順序を変えることになった。教皇グレゴリウス13世の簡潔な声明文は、跣足カルメル女子修道会の新しい支局に対して、特別な管区長を置くことを許可するものだった。また、王からの勅令により、改革のための4人の参考人からなる保護委員会が創設された。 テレサの人生の最後の3年間の間、彼女はアンダルシア地方の北西部にあるビリャヌエバ・デ・ラ・ハラ(Villanueva de la Jara)(1580年)、バレンシア(1580年)、ソリア(1581年)、ブルゴスとグラナダ(1582年)に修道院を創立した。全部で17人の女子修道院は、1つを除いて彼女によって創立されたものだった。そして、同じ数の男子修道院も彼女の20年間の改革活動のおかげで創立されたのだった。彼女の最後の病気は、ブルゴスからアルバ・デ・トルメスに旅する途中に突然起こった。 逸話的には、彼女は1582年の10月4日から10月15日の間の夜に亡くなったとされる。それは、スペインおよびカトリックの世界では、ユリウス暦からグレゴリオ暦に切り替えた時に当たっていた。彼女の没後40年がたって、彼女は列聖された。教会では彼女を「天使のような修道女」として崇敬している。スペイン議会(Cortes Generales)は、1814年に彼女をスペインの貢献者として称えた。そして、その大学は既に学位と共に教会博士の称号を授与していた。この称号はラテン語で表されているが、死後にローマ教皇庁から授与される「教会博士」の称号とは異なる。こちらの称号については、1970年に授与された。彼女の著作における神秘主義思想は、続く何世紀もの間の多くの神学者たちの思想形成に大きな影響を与えた。例えば、フランシスコ・サレジオ、フェネロン(Fénelon)、ポールロワイヤリストたち(Port-Royalists)である。
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