改革派諸侯との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:25 UTC 版)
「エドワード1世 (イングランド王)」の記事における「改革派諸侯との戦い」の解説
金欠の王庫に財政援助を求めるためにヘンリー3世が1258年に招集したオックスフォード議会(英語版)ではレスター伯を中心とした改革派諸侯がオックスフォード条項を可決させて国王権力の制限を図り、ヘンリー3世やエドワードと対立を深めた。さらに翌1259年にウェストミンスターに召集された議会ではウェストミンスター条項が可決されるが、これは国王以上に領主裁判権をはじめとする貴族権力を制限していた。改革派諸侯が一枚岩ではないことに目を付けたエドワードが貴族たちに対する反撃で盛り込んだものという。 ヘンリー3世ははじめオックスフォード条項遵守の誓約をしたが、1261年になってオックスフォード条項遵守誓約の無効を教皇アレクサンデル4世から認めてもらい、これにより国王と諸侯の対立が深まった。両派は競うように地方の掌握に努めるようになった。そして1264年5月に至って両派はルイスで戦闘に及び、第2次バロン戦争が始まった。緒戦のルイスの戦いは諸侯軍の圧勝に終わり、エドワードも父王も捕虜にされた。この後1年ほどレスター伯が王不在の政府を主導したが、1265年5月にエドワードが脱走し、同年8月のイーブシャムの戦い(英語版)でレスター伯を敗死させて王室に権力を取り戻すことに成功した。 ついでエドワードとヘンリー3世は1266年6月に改革派諸侯が立てこもったケニルワース城(英語版)を包囲するも、難攻不落の同城を陥落させることはできなかった。そこでケニルワース宣言(英語版)を発した。同宣言はオックスフォード条項は破棄するとしつつ、反乱に関わった程度に応じて罰金を支払えばそれ以上処罰しないことを改革派諸侯たちに保証していた。その結果、諸侯たちはしばらく様子を見ながらも大半は年末までに宣言を受けいれて投降した。
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