改革者から暴君へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:14 UTC 版)
「モハメド・シアド・バーレ」の記事における「改革者から暴君へ」の解説
クーデター直後のシアド・バーレは、意欲にみちた改革者であった。彼は科学的社会主義の名のもとに、銀行の国有化・農業(牧畜)の重視・ソマリ語のラテン表記の導入・男女平等の推進と女性の組織化などの国の近代化と中央集権化を強力に押し進めた。しかし、あまりにも急進的で部族社会の伝統や地域事情を考慮しないそれらの改革は、大半が失敗し、ソマリアの社会に混乱を招くだけの結果に終わる。 数年の間に何度かのクーデターや暗殺未遂事件もあったこともあり、思い通りにいかない改革にいらだったシアド・バーレはやがて猜疑心を肥大させ、権力欲のみの暴君へと変貌を遂げてゆく。治安局や治安裁判所を設立して、法律の訓練を受けていない軍人による司法活動を正当化すると、1975年に新しい民法の導入に反対する抗議行動を起こしたイスラム教の指導者10名を処刑。1976年にソマリ社会主義革命党(SRSP)を設立し、自ら議長に収まって一党独裁体制を築きあげた。根絶を誓ったはずの縁故主義も復活し、政治・経済・軍隊の重要ポストを「M.O.D(マレハン族、オガデン族、ダルバハンテ族)」が独占する。こうした露骨な優遇政策は当然、他氏族の反発を招き、シアド・バーレに対する不信とソマリア国内の各氏族間の不和が醸成されてゆくことになった。
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