改革責任者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:25 UTC 版)
詳細は「薩摩藩の天保改革#10年間の改革」を参照 改革責任者となった調所の生活は一変する。前述のように調所は生活が派手で、もともとの職務であった茶花の他、相撲、囲碁、将棋そして詩歌といった多彩な趣味を持っていた。しかし改革に携わるようになると全ての趣味を止め、部下がそのような趣味を持つことすら嫌った。 趣味を止めた調所は猛烈な仕事人間になった。毎朝、夜が明けるや否な来客との面会を始め、出勤後午前10時から午後4時までは勤務したが、帰宅後もまた来客者対応に忙殺され、夕食を食べる暇さえ無いこともあった。主君への使いを送る前日には徹夜をして報告書を作成するなど、部下は調所がだらけた姿を見ることは無かった。また毎年10月頃には鹿児島を出発し、長崎、大坂、京都で藩務の陣頭指揮を執り、年末には江戸に着いた。江戸でも業務の指揮を執って、2月から3月頃に同じような道程で鹿児島へ向かったので、家族との同居は年2,3か月に過ぎなかった。また国元から江戸への往復中も部下に各地の物産、情勢、風俗等を毎朝報告するよう命じるなど、情報収集を怠らなかった。このような激務続きではあったが、たとえ徹夜をしても翌日は少々休憩しただけで全く業務に差支えが無かった。 仕事においては即断即決することもあったが、数日間熟考に熟考を重ねた上で決定することもあった。「調所の思慮は時と場合によっては十分を通り越し十三分だ。三分は過慮である」とも言われた。また人材には特に気を配り、「人柄吟味」を尽くした上で各部署に配置した。調所を引き立てた重豪のことは死後も霊前に生前と同様に改革の成果について報告し続けるなど、深い尊崇の念を抱いていた。その一方で実際に改革を遂行する中では、派手好きで贅沢好みな面があった重豪に釘を差すこともあった。また重豪の死後、引き続き調所を改革責任者として信任した斉興に対しても、調所は事の大小に関わらず報告を怠らず、斉興もまた細事に至るまで確認の上、決裁を下していた。
※この「改革責任者として」の解説は、「調所広郷」の解説の一部です。
「改革責任者として」を含む「調所広郷」の記事については、「調所広郷」の概要を参照ください。
- 改革責任者としてのページへのリンク