改革者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/14 03:46 UTC 版)
ペトルスは人里離れた修道院に住んでいたが、教会の運命をしっかり見定めていた。教会にとって嘆かわしい時代であったが、ペトルスは友人ヒルデブランド(後のグレゴリウス7世)と共に改革に尽力した。評判の悪かった教皇ベネディクトゥス9世が1045年に首席司祭ヨハネス・グラティアヌス(グレゴリウス6世)の手によって教皇位からおろされた際は、ペトルスはこれを支持してグレゴリウス6世に手紙を送り、ペザーロやチッタ・ディ・カステッロ、ファーノの堕落した司祭などを槍玉に挙げて、イタリア教会の堕落に対処するよう懇請した。 また神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世と交流を持つなど活動の領域を拡げるようになった。クレメンス2世がハインリヒ3世と王妃アグネスにローマで戴冠した時に、ペトルスはローマに滞在しており、1047年の年初にラテラノ大聖堂で開かれる教会会議に出席し、会議の決議によって聖職売買は禁止された。
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