教皇使節から枢機卿へ
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「ペトルス・ダミアニ」の記事における「教皇使節から枢機卿へ」の解説
ペトルスが病気で臥せっていた間に、ウィクトル2世が死に、モンテ・カッシーノ修道院の修道院長フレデリックが新たにステファヌス10世として教皇に選ばれた。1057年秋、ステファヌス10世はペトルスを枢機卿に任命することを決定した。教皇庁の改革者としてより伝道者に心の平安を見出していたペトルスはしばらくの間これを固辞したが、結局受け入れざるを得なくなった。1057年11月30日、オスティアの司教となり、枢機卿に列したうえ、グッビオの教区の管轄を任された。 枢機卿になると、ペトルスは枢機卿の大きな責務に感動し突き動かされて、同僚の枢機卿達に興奮した内容の手紙を書き送った。その中でペトルスは、自分達以前のすべての枢機卿に勝るほど立派になるべきだと強く説いた。ところが、4ヶ月後にステファヌス10世はフィレンツェで急逝し、ベネディクトゥス10世が選出されたが、この時教皇使節としてドイツに赴いていたヒルデブランドなど改革派枢機卿は反対し、教会は分裂した。ペトルスもベネディクトゥス10世を厳しく非難したが、状況は改革派に不利であったために一時的にフォンテ・アヴェッラーナに退いた。
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