教皇使節への任命
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「アデマール・ド・モンテイユ」の記事における「教皇使節への任命」の解説
1095年の春から夏にかけて教皇ウルバヌス2世は南仏を精力的に回り、この間に南仏諸侯やアデマールを含む聖職者らと教会改革や聖地遠征への下準備を進めたとみられる。1095年11月、10日間にわたりクレルモン=フェランで行われたクレルモン教会会議では聖職売買や叙任権などをめぐる懸案が取り上げられた。最終日の11月27日、教皇ウルバヌス2世はセルジューク朝に圧迫される東ローマ帝国の救援と聖地奪還を民衆に呼びかけ、アデマールはこれに熱狂的に応えた。ウルバヌス2世はすぐさま司教アデマールを教皇使節に任命し、聖地に向かう軍の指揮を任せた。以後、十字軍の遠征先において、内輪もめを続ける参加諸侯ではなくアデマールが精神的指導者とみなされることになる。 翌1096年、アデマールは寄付を集める一方、アデマールに続いて聖地奪還の呼びかけに応えた南フランスの有力貴族トゥールーズ伯レーモン4世(レーモン・ド・サン=ジル)と南仏諸侯軍の統合について話し合いを進めた。こうして1096年10月、プロヴァンス諸侯による十字軍がル・ピュイからコンスタンティノープルに向けて出発した。彼らはアルプス山脈を越えてロンバルディアを経由し、ダルマチアの海岸に沿って南へ進み、東ローマ領のドゥラッツォに入った。ドゥラッツォの知事で皇帝アレクシオス1世コムネノスのいとこでもあったヨハネス・コムネノスがプロヴァンス軍の一行に監視を兼ねて加わったが、コンスタンティノープルへの途中の各地で十字軍と東ローマの間に軋轢が絶えなかった。1097年2月、アデマールはオフリドの近くでラバの背から振り落とされ、金品を奪おうと寄ってきた兵士たちに殴られた。兵士らは仲間によって制止されたが、これ以後アデマールは体調を崩した。3月には前進する軍勢から離れてサロニカ付近で少数の手勢とともに休んだ。 プロヴァンスの軍勢は4月27日に東ローマの首都コンスタンティノープルに到達したが、これまでの東ローマ側との衝突で不信感を抱いていた指導者のレーモン・ド・サン=ジルは皇帝アレクシオス1世コムネノスに対する臣従の誓いを拒んだ。少し遅れて到着したアデマールはレーモンをなだめ、レーモンはかろうじて皇帝に対し、対立する気も侵略する気もないことを認めた。
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