教皇使節への任命とは? わかりやすく解説

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教皇使節への任命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 06:01 UTC 版)

アデマール・ド・モンテイユ」の記事における「教皇使節への任命」の解説

1095年の春から夏にかけて教皇ウルバヌス2世南仏精力的に回りこの間南仏諸侯アデマールを含む聖職者らと教会改革聖地遠征への下準備進めたとみられる1095年11月10日間にわたりクレルモン=フェラン行われたクレルモン教会会議では聖職売買叙任権などをめぐる懸案取り上げられた。最終日11月27日教皇ウルバヌス2世セルジューク朝圧迫される東ローマ帝国救援聖地奪還民衆呼びかけアデマールはこれに熱狂的に応えたウルバヌス2世すぐさま司教アデマール教皇使節任命し聖地に向かう軍の指揮任せた以後十字軍の遠征先において、内輪もめ続け参加諸侯ではなくアデマール精神的指導者みなされることになる。 翌1096年アデマール寄付集め一方アデマール続いて聖地奪還呼びかけ応えた南フランスの有力貴族トゥールーズ伯レーモン4世(レーモン・ド・サン=ジル)と南仏諸侯軍統合について話し合い進めた。こうして1096年10月プロヴァンス諸侯による十字軍ル・ピュイからコンスタンティノープル向けて出発した。彼らはアルプス山脈越えてロンバルディア経由しダルマチア海岸沿って南へ進み東ローマ領のドゥラッツォに入った。ドゥラッツォの知事皇帝アレクシオス1世コムネノスのいとこでもあったヨハネス・コムネノスがプロヴァンス軍の一行監視兼ねて加わったが、コンスタンティノープルへ途中各地十字軍東ローマの間に軋轢絶えなかった。1097年2月アデマールオフリド近くラバの背から振り落とされ金品奪おう寄ってきた兵士たち殴られた。兵士らは仲間によって制止されたが、これ以後アデマール体調崩した3月には前進する軍勢から離れてサロニカ付近少数の手とともに休んだプロヴァンス軍勢4月27日東ローマ首都コンスタンティノープル到達したが、これまでの東ローマ側との衝突不信感抱いていた指導者のレーモン・ド・サン=ジル皇帝アレクシオス1世コムネノス対す臣従誓い拒んだ。少し遅れて到着したアデマールレーモンをなだめ、レーモンはかろうじて皇帝対し対立する気も侵略する気もないことを認めた

※この「教皇使節への任命」の解説は、「アデマール・ド・モンテイユ」の解説の一部です。
「教皇使節への任命」を含む「アデマール・ド・モンテイユ」の記事については、「アデマール・ド・モンテイユ」の概要を参照ください。

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