教皇勅書と条約
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ポルトガルは1415年にセウタを征服した後、アフリカ西沿岸を南下して新たな土地を発見するたびにローマ教皇から「征服に属する地域」であることを承認する勅書 (Bulla) が与えられた。ポルトガルの海外進出が南下する形で行なわれたので、教皇勅書による承認は緯線を基準として更新されていったが、1492年にスペインが南北アメリカ(西インド諸島)を発見したことから、緯線を基準とした南北の分割ではなく、経線を基準にした東西の分割承認が必要となった。 1454年1月8日にニコラウス5世がアフォンソ5世に与えた「Romanus pontifex」、1456年3月13日にカリストゥス3世がエンリケ航海王子のキリスト騎士団に与えた勅書 (Inter caetera) 、そしてそれらを一部修正した1479年9月4日のアルカソヴァス条約が分界の直接の起源となった。この条約でカナリア諸島はスペインが、その他の大西洋諸島と「カナリア諸島から下(南)へギネアに向けて」すでに発見された、またはこれから発見される土地と島嶼をポルトガルが確保した。 1481年6月21日に、ポルトガルは、アルカソヴァス条約の追認と先行勅書群の確認のための勅書 (Aeterni regis、永遠の王) を教皇シクストゥス4世から引き出し、1488年にはバルトロメウ・ディアスが喜望峰を回航してインド洋に到達した。 1493年、クリストファー・コロンブスの航海を機にスペインが海外植民地の獲得に本格的に乗り出し、それがきっかけとなってアルカソヴァス条約で決められた境界に関する問題が発生。ポルトガルは自国の支配領域に排他性を持たせるため教皇勅書を利用した。ローマ教皇アレクサンデル6世はスペインに向け、5月4日付の教皇勅書インテル・カエテラ (inter caetera) およびエクジミナエ・デヴォティオニス (Eximinae devotionis) を発給。この勅書によって、アゾレス諸島とヴェルデ岬諸島の西100レグアの地点を通る経線より、東側をポルトガルが、西側をスペインがそれぞれ「征服に属する地域」と定める教皇子午線が定められた。同年9月にはスペイン船がその境界線に行くまでポルトガル領の海域を通る航海権を認める大勅書も公布した。 教皇アレクサンデル6世の教皇勅書には、ポルトガルとスペインの双方とも全く注意を払わなかった。その代わりに1494年のトルデシリャス条約を交渉した。 1494年6月7日、スペイン国王フェルナンド2世とポルトガル国王ジョアン2世の間で交わされたトルデシリャス条約によって、分割線はヴェルデ岬諸島の西370レグアの位置に変更された。この条約は1506年1月24日付のユリウス2世の大勅書で承認され、1508年には両国国王に十分の土地財産を持つ司教座聖堂や修道院を建設することなどの具体的義務を明確にし、その布教保護権を恒久的に与える大勅書を発した。 トルデシリャス条約で決められた分界線の正反対の位置の世界の分割は、当初モルッカ諸島のイベリア両国の領有問題として争われた。1512年、スペインは分界線は地球を等分割する子午線であるとする解釈を表明。1529年4月22日に締結されたサラゴサ条約によりポルトガルがモルッカ諸島を領有し、スペインは35万ドゥカートの賠償金と引き換えにモルッカへの領有権主張を放棄してフィリピンを確保した(#モルッカ諸島の節参照)。 1512年、ポルトガルがスパイス諸島を発見したことを受けて、スペインは1518年に教皇アレクサンデル6世が世界を2つに分けたという説を唱えたが、この頃までには他のヨーロッパ諸国は、教皇が新世界のような広い地域の主権を贈与する権利があるという考え方を完全に拒否していた。スペイン国内でもフランシスコ・デ・ビトリアのような有力者がインテル・カエテラの有効性を否定していた。スペインはローマ教皇庁の教皇勅書に基づく領有権を放棄しなかったが、スペイン王家は大西洋の境界線をめぐってローマ教皇の制裁を求めることもしなかった。むしろスペインはポルトガルと直接交渉をすることを選んだ。 1537年の教皇勅書スブリミス・デウスによって教皇アレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラは無効にされたという。
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