ポルトガル海上帝国
(ポルトガル領 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 05:28 UTC 版)
ポルトガル海上帝国(ポルトガルかいじょうていこく、ポルトガル語: Império Português)は、15世紀以来ポルトガル王国が海外各地に築いた植民地支配及び交易体制の下で栄えた時期を指す。新大陸発見後はトルデシリャス条約によりスペインと世界を二分した。領域支配より交易のための海上覇権が中心であったので、このように呼ばれる(オランダ海上帝国も同様である)。それゆえ、既存の大国であったアステカ帝国やインカ帝国の、それぞれの中心地域であったメキシコおよびペルーにおける領域支配を中心としたスペインの場合は、とくに「海上帝国」とは言わない(スペイン帝国)。
- ^ C. Bloomer, Kristin (2018). Possessed by the Virgin: Hinduism, Roman Catholicism, and Marian Possession in South India. Oxford University Press. p. 14. ISBN 9780190615093
- ^ J. Russo, David (2000). American History from a Global Perspective: An Interpretation. Greenwood Publishing Group. p. 314. ISBN 9780275968960. "the Church of England was a " state church " in the colonies the way it indisputably was in England, and as the Roman Catholic Church was in the neighboring Spanish and Portuguese empires."
- ^ 当時、岡本大八事件、平山常陳事件、島原の乱などで、キリスト教に不信感を募らせていた幕府に対し、オランダは、ポルトガルの宣教師が、本国と結んで日本を蚕食する恐れありと伝えた。そして、一方で自分たちオランダは布教を伴わない貿易が可能であると訴えていた
- ^ Far Eastern Economic Review, 1974, page 439
- ^ The Evolution of Portuguese - Chinese Relations and the Question of Macao from 1949 to 1968, Moisés Silva Fernandes, Chinese Academy of Social Sciences, 2002, page 660
- ^ 羽田 2017, p. 60.
- ^ 岡 2010, p. 195.
- ^ 羽田 2017, p. 62.
- ^ ディウ世界飛び地領土研究会
- ^ ダドラ&ナガルハベリー世界飛び地領土研究会
- ^ ダマン世界飛び地領土研究会
- ^ サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダ世界飛び地領土研究会
- 1 ポルトガル海上帝国とは
- 2 ポルトガル海上帝国の概要
- 3 概説
- 4 財政、金融
- 5 参考文献
ポルトガル領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 17:32 UTC 版)
「ダマン・ディーウ連邦直轄領」の記事における「ポルトガル領」の解説
詳細は「ポルトガル・マムルーク海上戦争」および「ディーウ沖海戦」を参照 ディーウは1535年にポルトガル領となる。ディーウ自体は長さ10km程度の島であり、ポルトガルの要塞として使われた。なお、その対岸にある2つの村もポルトガル領ディーウの一部とされていた。1558年にポルトガル領となったのちは木材などの積出港、貿易拠点として栄える。ポルトガルはインドを最初に植民地化した西洋国だが、インド内陸部を支配する能力、動機とも備えておらず、交易の拠点となる商館を維持する政策を取った。最盛期にはインド西岸、南岸を中心に13都市を支配している。なお、18世紀後半からは内陸部のダードラー及びナガル・ハヴェーリーもポルトガル領ダマンの一部とされた(ただし、面積・人口ともダマン自体より大きい)。 その後20世紀中頃まではゴアと共にポルトガル領インドを構成していた。第二次世界大戦終結後、インドの独立を経て、1961年までポルトガル領として留まった。
※この「ポルトガル領」の解説は、「ダマン・ディーウ連邦直轄領」の解説の一部です。
「ポルトガル領」を含む「ダマン・ディーウ連邦直轄領」の記事については、「ダマン・ディーウ連邦直轄領」の概要を参照ください。
ポルトガル領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 02:00 UTC 版)
「ポルトガル保護領コンゴ」の記事における「ポルトガル領」の解説
ポルトガルの探検家、宣教師、商人は、15世紀半ばにコンゴ川の河口部に到達し、コンゴ王国の強力な王であるマニコンゴ(英語版)と接触した。マニコンゴは、ソイオ公国(Soio)やバンバタ公国(Bambata)などに加えて、アンゴイオ王国(Ngoyo)、ロアンゴ王国(Kingdom of Loango)、カコンゴ王国(Kakongo)などの小王国も傘下に従えており、この地域の大部分を支配していた 。 ゆっくりと、16世紀から17世紀にかけて、ポルトガル、イギリス、フランス、ベルギー、ブラジルとオランダが、コンゴ川沿いとその近くに商品を貯蔵する倉庫や補給のための拠点、小規模なパーム油の加工場などを建てていった。貿易は16世紀、17世紀、18世紀と続き、現地でのヨーロッパ人の存在感が高まるにつれて、植民地での勢力争いも起きた 。 この地域における最初のポルトガルの主権の主張は、1885年2月にシムランブコで署名された条約であり、これは「コンゴの諸君主と知事」の要請によりポルトガルによるコンゴ保護領を形成した。これはしばしば、現代のカビンダ地域の自決権(英語版)を擁護するための法的および歴史的議論の基礎となっている。たとえば、第1条は、"os príncipes e líderes e seus sucessores declaram, voluntariamente, o reconhecimento da soberania portuguesa, colocando sob o protetorado desta nação todos os territórios por eles governados"[原文まま] 「諸君主と指導者およびその後継者は、ポルトガルの主権の承認を自発的に宣言し、自ら統治するすべての領土をこの国の保護下に置く」と述べている。第2条では"Portugal é obrigado a manter a integridade dos territórios sob sua proteção"「ポルトガルは、その保護下の領土の完全性を維持する義務がある」 ポルトガル領コンゴは、以前は強力なコンゴ王国の一部だった小国群を保護国化して形成されていた。それまで、保護領は、コンゴ川南岸のポルトガル領アンゴラのサント・アントニオ・ド・ザイール(Soyo)まで続いていたが、同年に開催されたベルリン会議では、コンゴ自由国にコンゴ川に沿って幅30kmの権利を与えた。これによってポルトガル領コンゴはアンゴラから切り離された。 1886年、ポルトガルから初代知事として、カピタン・ド・フレガーテのジョアン・アントニオ・ダス・ネベス・フェレイラが任命された 弱体化したコンゴ王国も首都サン・サルバドル・ド・コンゴの付近では影響力を維持しており、ポルトガル保護領からは外れていた。また、保護領の南限に位置するコンゴ県(distrito do Congo。現在のアンゴラのウイジェ州)が創設され、カビンダ市を管理行政上の首都としていた 。
※この「ポルトガル領」の解説は、「ポルトガル保護領コンゴ」の解説の一部です。
「ポルトガル領」を含む「ポルトガル保護領コンゴ」の記事については、「ポルトガル保護領コンゴ」の概要を参照ください。
「ポルトガル領」の例文・使い方・用例・文例
- ポルトガル領のページへのリンク