トルデシリャス条約
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トルデシリャス条約(トルデシリャスじょうやく、ポルトガル語: Tratado de Tordesilhas, スペイン語: Tratado de Tordesillas)は、1494年6月7日にスペイン帝国とポルトガル王国の間で結ばれた条約[1]。
- ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月18日閲覧。
- ^ Kirkpatrick Sale The Conquest of Paradise, p. 123, ISBN 0333574796
- ^ A copy of Columbus's letter is known to have arrived in Rome by mid-April (it is mentioned in a Venetian chronicle dated 18 April), Kirkpatrick Sale, p. 124
- ^ a b c Spate, Oskar H.K., "The Alexandrine Bulls and the Treaty of Tordesillas", Chap.2, The Spanish Lake
- ^ The Treaty of Tordesillas did not specify any longitude, thus writers have proposed several, beginning with Jaime Ferrer's 1495 opinion provided at the request of and to the Spanish king and queen.
- ^ UNESCO Memory of the World Archives
- ^ “日本大百科全書(ニッポニカ)の解説”. コトバンク. 2019年6月20日閲覧。
- ^ なお、この東経144度30分線を戦国時代(条約締結時は享禄2年、後奈良天皇、将軍足利義晴)だった日本に延長すると、東蝦夷地として先住民のアイヌ民族と蠣崎義広の間で抗争が続いていた北海道の東部、現在の網走市東部(中心市街地の東側) - 屈斜路湖 - 釧路市西部(中心市街地の西側)を通過し、本州以南はすべてポルトガル優先の範囲に属する。ただし、サラゴサ条約の締結時はまだポルトガル人は日本に到達しておらず、1543年の種子島来航(鉄砲伝来)で両国間の接触が開始されても、ポルトガルは日本での領土要求は行わなかった。
- ^ Edward Gaylord Bourne, "Historical Introduction", in The Philippine Islands 1493–1803 by Emma Helen Blair.
- ^ Verzijl, Jan Hendrik Willem; W.P. Heere; J.P.S. Offerhaus (1979). International Law in Historical Perspective. Martinus Nijhoff. pp. 230–234, 237. ISBN 978-90-286-0158-1. Online, Google Books entry
- ^ Thornberry 2002, p. 65.
- 1 トルデシリャス条約とは
- 2 トルデシリャス条約の概要
- 3 教皇勅書の効果
- 4 外部リンク
トルデシリャス条約
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「フェルディナンド・マゼラン」の記事における「トルデシリャス条約」の解説
コロンブスの発見でスペインはアメリカとアフリカのほぼ中間の子午線より西の新しく発見した土地をスペイン領とするローマ教皇の勅旨を得た。南北アメリカ大陸をすべてスペイン領とするものである(ただし、当時はアジア大陸東端の大半島と思われていた)これにポルトガルはただちに反発。交渉の結果、ヴェルデ岬諸島の西370レグアを通る西経46度37分にあたる子午線をスペイン・ポルトガル領の境とするトルデシリャス条約が1494年に結ばれた。この結果、ブラジルはポルトガル領、ブラジル以外の南北アメリカはスペイン領となったのだが、トルデシリャス条約によるスペイン・ポルトガルを分ける子午線が地球の裏、アジア側ではどこを通っているかは定かにはなっていなかった。当時スペインとポルトガルはライバルとして激しく競っていたが、同時に両国は隣国でもあり、両国の国王は親戚関係でもあり、トルデシリャス条約による領土の取り決めには敏感であった。 フォンセカとアロが西回りの航海者として見出したエステヴァン・ゴメスは優秀な航海者であったが、トルデシリャス条約に関わるような微妙な政治情勢には疎く、ゴメスの渡航計画ではフェルナンド王の後を継いだスペイン王・カルロス1世(後の神聖ローマ帝国皇帝・カール5世)を政治的に安心させること(すなわちポルトガルの領分を侵さないということ)ができず、ゴメスを指揮者として艦隊を派遣するフォンセカとアロの計画は頓挫する。 ゴメスを指揮者として艦隊を派遣するフォンセカとアロの計画が頓挫するのと相前後して、セビリアでスペイン王に仕えていたポルトガル人デュアルテ・バルボーザはスペインの関心事が西回りでの香料諸島到達であることを知り、ポルトガルで失意の元にある古い友人であるマゼランに白羽の矢を立てる。セラーンの手紙によってもとより香料諸島への渡航を希望していたマゼランは、盟友である天文学者ルイ・デ・ファレイロの同行を条件にデュアルテ・バルボーザの誘いに乗ることになる。1517年のことである。また、マゼランはデュアルテ・バルボーザの妹ベアトリスを妻にむかえている。
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