セラーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:09 UTC 版)
「フェルディナンド・マゼラン」の記事における「セラーン」の解説
マゼランの従兄弟であり、同じ東洋派遣部隊の将校であるフランシスコ・セラーンはポルトガルの最初の香料諸島遠征に参加したが、艦隊は途中で遭難。セラーンは孤立しながらも通りかかった中国のジャンク船を奪い香料諸島に到達する。セラーンは香料諸島において島の一つテルナテの王の軍事顧問のような役割をはたし、王の重臣として高い地位と裕福な生活を手に入れる。セラーンは香料諸島に王につぐ地位を持ち滞在しながら、ポルトガルやマゼラン宛に手紙を書き報告している、マゼランにあてた手紙でセラーンは「香料諸島がうわさ通り豊富な香料を産する」ことと、「テルナテ王のポルトガルへの好意とポルトガル側の香料諸島確保の意思の一致にもかかわらず、ポルトガルの支配がまだ確立できていない」ことを知らせ、そして 私はヴァスコ・ダ・ガマが見たよりもより豊かで、大きく、より美しい新世界を発見した。あなた(マゼランのこと)がここで私と一緒になり、私のまわりにある喜びを自ら味わうことを望む — イアン・カメロン(1978)、p.34 とマゼランに書き送っている。セラーンの手紙によって香料諸島の事情を知ったマゼランだが、これはのちにマゼランがスペイン王の元で西回りの香料諸島渡航ルート開拓を志願する動機の一つとなっている。セラーンはこの後、マゼランがスペインから西回りの東洋航路発見の航海についている間に香料諸島の王の1人ティドーレ王にテルナテ王と共に計略で毒殺されている。ポルトガル人マゼランを失ったスペインのマゼラン艦隊が香料諸島にたどり着いたとき、セラーン及びテルテナ国王は8ヶ月前にすでに毒殺されており、マゼラン艦隊は香料諸島の別の島の王であるティドーレ王のもとで厚遇を得る。 1511年のマラッカ制圧の後、1年半ほどはマゼランが何をしていたのかは記録はない。おそらくはマラッカ周辺海域の哨戒任務についていたのではないかと推測されている。マゼランは1513年1月に帰国するが、帰国した訳も分かっていない。およそ8年の東洋艦隊勤務で船乗りとしても戦士としても十分な経験を積んでの帰国であった。
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