大航海時代以降
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16世紀、大航海時代が始まると、プトレマイオスが観測できなかった南天にも星が続々と見つかった。16世紀末に、オランダの航海者ペーテル・ケイセルとフレデリック・デ・ハウトマンが遺した記録を元に、1603年にヨハン・バイエルが『ウラノメトリア』に南天の星座を描き、以後「バイエル星座」として知られるようになった。これ以降、さまざまな天文学者が続々と新しい星座を設定したが、ヨハネス・ヘヴェリウスの7星座とニコラ・ルイ・ド・ラカーユの14星座を除くと、そのほとんどは現行の88星座に採用されていない。 この時代には南天だけでなく、北天でも星が少なくこれまで星座が設定されていなかった領域にいくつかの星座が設定された。また、当時の支配者層である王侯貴族にちなんで名付けられた星座も作られたが、そのほとんどは88星座に採用されなかった。ドイツの天文学者で宗教家のジュリアス・シラーは、キリスト教の伝聞に基づいた星座を設定し1627年に出版したが、現在はどれも使われていない。
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大航海時代以降
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「ヨーロッパ人のアジア進出年表」の記事における「大航海時代以降」の解説
1497年–1499年: ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマ、ニコラウ・コエリョ、バルトロメウ・ディアスらが、喜望峰まわりで初めて海路だけでヨーロッパからインドに到達する。 1500年–1501年: ポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルらが、ブラジルを発見した後に喜望峰を回り、インドに到達。当初の艦隊は13隻に1500人が乗り込んでおり、バルトロメウ・ディアス、ニコラウ・コエリョ、サンチョ・デ・トーヴァー、シモン・デ・ミランダ、アイレス・ゴメス・ダ・シルヴァ、ヴァスコ・デ・アタイーデ、ディオゴ・ディアス、シモン・デ・ピナ、ルイース・ピレス、ペロ・ヴァス・デ・アタイーデ、ヌノ・レイタン・ダ・クーニャらが船長であった。ルイース・ピレスはブラジル到達以前にカーボベルデで分かれ、ポルトガルに帰った。ガスパル・デ・ラモスもしくはアンドレ・ゴンサルヴェスのどちらかが、ブラジル到達後にポルトガルへ引き返し、南アメリカの発見を報告した。ヴァスコ・デ・デ・アタイーデ、バルトロメウ・ディアス、シモン・デ・ピナ、アイレス・ゴメス・ダ・シルヴァの船は、喜望峰付近で遭遇した嵐により沈没した。ディオゴ・ディアスの船は途中で分かれてマダガスカルを発見した。彼はその後、ヨーロッパ人として初めて海路のみで紅海に入った。ヌノ・レイタン・ダ・クーニャ、ニコラウ・コエリョ、サンチョ・デ・トーヴァー、シモン・デ・ミランダ、ペロ・ヴァス・デ・アタイーデらはインドに到達した。この艦隊には、著述家のペロ・ヴァス・デ・カミーニャや、フランシスコ会士エンリケ・デ・コンブラらが乗船していた。 1501年–?: ジョアン・ダ・ノーヴァらポルトガル艦隊が三回目のインド到達。その道中でアセンション島(1501年)、セントヘレナ島(1502年)を発見した。 1502年–1503年: ヴァスコ・ダ・ガマがインドに自身2回目の到達。 1503年–1504年: アフォンソ・デ・アルブケルケが、ポルトガルとして5度目のインド到達。インドにおける最初の拠点コーチを獲得する。 1505年: フランシスコ・デ・アルメイダが、初代インド副王に任じられる。彼は1505年3月25日に22隻の艦隊(カラック船14隻、キャラベル船6隻、船員1000人、兵士1500人)を率いてリスボンを出発し、9月13日にアンジェディヴァ島に到達した。彼の息子ロウレンソ・デ・アルメイダは、インド南岸を探検してセイロン島に到達した。 1507年–1513年: 1507年にアフォンソ・デ・アルブケルケがペルシア海峡のホルムズを占領する。その後1508年に第二代インド副王に任じられ、1510年にゴアを占領した。これ以降、ゴアはインドにおけるポルトガルの一大拠点として栄えた。 1509年: ディオゴ・ロペス・デ・セケイラが海路でマラッカを発見。 1511年: アフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカを占領する。これ以降、マラッカは東南アジアにおけるポルトガルの最重要戦略拠点となる。マラッカ制圧を確実にした後で東方の香料諸島(モルッカ諸島)の情報を得たアルケブルケは、11月にアントーニオ・デ・アブレウ率いる3隻の遠征隊を派遣して探検させた。同年、ポルトガルがアユタヤ王国に使節を派遣する。彼はおそらく、タイに足を踏み入れた最初のヨーロッパ人であった。この5年後、アユタヤはポルトガルに国内での貿易を認めた。 1512年初頭: アントニオ・デ・アブレウらが、マレー人を水先案内人として、ジャワ島、小スンダ諸島、アンボン島を経由してバンダ諸島に到達。遠征隊は1か月ここにとどまり、ナツメグやメース、また中継貿易によってバンダにもたらされていたクローブなどを購入した。アントニオ・デ・アブレウはアンボンを経由してマラッカに帰還したが、副官のフランシスコ・セラーンはさらにモルッカ諸島を奥深く進もうとして遭難し、テルナテ王国に流れ着いた後、要塞を築いたり傭兵として戦ったりしながらここで生涯を終えた。 1513年: アフォンソ・デ・アルブケルケがアデンを包囲したが攻略に失敗し、その後紅海を探検する。 1513年: ポルトガル人のジョルジ・アルヴァレスが、ヨーロッパ人として初めてアフリカ周り海路から中国(明)に到達する。上陸地は珠江デルタ内の島タマンと伝えられている。 1516年-1517年: ポルトガル人のラファエル・ペレストレーリョが、明の広州に到達。 1517年: ポルトガル人のフェルナン・ピレス・デ・アンドラーデがタマン、次いで広州に到達。その後、ポルトガル王の使節として1520年に南京や北京まで至った。 1519年–1522年: ポルトガル人のフェルディナンド・マゼラン率いるスペイン艦隊による史上初の世界一周航海。また同時に、初めて西回りで太平洋を渡りアジアに至ったともいえる。1519年8月10日に5隻270人の艦隊がセビリアを出発し、1520年に南アフリカ南部のマゼラン海峡を発見。1521年にマリアナ諸島、そしてフィリピンのホモンホン島に到達。マゼランはその後のマクタンの戦いで戦死するが、生き残った船員はパラワン、ブルネイと航海を続け、ポルトガル勢力を避けつつモルッカ諸島のティドレに到達する。最後はフアン・セバスティアン・エルカーノ率いる1隻18人のみが1522年にスペインに生還、世界一周を達成した。 1524年: ヴァスコ・ダ・ガマがインドに自身2回目の到達。 1542年: ポルトガル人のアントニオ・ダ・モッタらが中国のジャンク船に乗って寧波へ向かう途中で嵐に遭い、種子島に漂着。日本に到達した最初のヨーロッパ人となる。(鉄砲伝来) 1549年: スペインのイエズス会士フランシスコ・ザビエル、コスメ・デ・トーレス、フアン・フェルナンデスらが、日本人のヤジロウ(アンジロウ)、アントニオ、ジョアン、中国人のマヌエル、インド人のアマダーらとともに日本に到来。 1556年: ポルトガル人ドミニコ会士ガスパル・ダ・クルスが、海路から至ったヨーロッパ人として初めて中国でキリスト教の布教を行う。彼は1556年に広州に至って1か月ほど宣教を行い、ヨーロッパで初めて明朝に関する書物『中国誌』を出版した。その中には、地理、行政区画、帝室、役人の階級、官僚制、造船技術、遠竹、農業、工芸、商業、衣服、宗教・社会的な慣習、音楽や楽器、文字、教育、裁判制度といったあらゆる情報が記録されている。 1579年–1619年: イエズス会士のトーマス・スティーブンスが、イングランド人としておそらく初めてインドに到達。陸路でここに至った彼は、そのまま1619年にインドで没した。 左側(1-3枚目) 右側(4-6枚目) 坤輿万国全図(1602年) 1582年: イタリア人イエズス会士マテオ・リッチがポルトガル領マカオから北京まで至り、彼の天文学などの知識を見込んだ明の万暦帝の命を受けてヨーロッパ人として初めて紫禁城に入る。1602年、通訳の李之藻とともに世界地図『坤輿万国全図』を製作し、中国人や日本人の世界観と地理学に大きな影響を与える。 1595年: オランダ人のヤン・ホイフェン・ヴァン・リンスホーテンが、ゴアでポルトガルの秘密文書から写し取った東洋の地図を『東洋におけるポルトガル船による旅行記』(Reys-gheschrift vande navigatien der Portugaloysers in Orienten)にまとめ出版する。1598年には英語やドイツ語にも翻訳され、それまで一世紀近くポルトガルが海図を秘匿し独占してきた東洋への航路が他のヨーロッパ諸国にも開かれることになった。 1599年–1614年: ジョン・ミルデンホールとリチャード・ニューマンが、1614年に陸路でインドのアーグラに到達。 1600年–1610年: イングランド人ウィリアム・アダムスとオランダ人ヤン・ヨーステンを乗せた船が日本に漂着。ウィリアム・アダムスは以後10年にわたり徳川家康の顧問を務める。 1602年–1607年: ポルトガル人のイエズス会士ベント・デ・ゴイスが、ヨーロッパ人として初めてインドから陸路で中国に到達する。 1612年–1617年: イギリス人トーマス・コリエットが、陸路でインドに到達する。 1615年–1618年: イギリスの外交官トーマス・ローが、ムガル帝国のジャハーンギール帝への使節としてアーグラに到達する。 1624年: ポルトガルのイエズス会士アンドニオ・デ・アンドラーデが、ヨーロッパ人として初めてチベットに到達する。 1626年–1627年: ポルトガルのイエズス会士エステヴァン・カセラとジョアン・カブラルが、ヨーロッパ人として初めてブータンに到達する。 1631年–1668年: フランスの商人ジャン=バティスト・タヴェルニエが、アジア(主にペルシア、インド、ジャワ)へ6度渡航する。 1656年–1669年: フランスの旅行家フランソワ・ベルニエが、エジプトやサウジアラビアを経由してムガル帝国に至り、アウラングゼーブ帝の宮廷に8年間滞在する。 1664年–1680年: フランスの商人ジャン・シャルダンが、二度にわたりペルシアのサファヴィー朝へ旅する。2回目はインドまで歩を進めている。 1675年–1678年: モルダヴィア出身のニコライ・スパファリーが、康熙帝治下の清に赴く。
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