大航海時代以降とは? わかりやすく解説

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大航海時代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:43 UTC 版)

星座」の記事における「大航海時代以降」の解説

16世紀大航海時代が始まると、プトレマイオス観測できなかった南天にも星が続々見つかった16世紀末に、オランダ航海者ペーテル・ケイセルフレデリック・デ・ハウトマンが遺した記録元に1603年ヨハン・バイエルが『ウラノメトリア』に南天星座描き以後バイエル星座」として知られるようになった。これ以降さまざまな天文学者続々新しい星座設定したが、ヨハネス・ヘヴェリウスの7星座ニコラ・ルイ・ド・ラカーユ14星座を除くと、そのほとんどは現行の88星座採用されていない。 この時代には南天だけでなく、北天でも星が少なくこれまで星座設定されていなかった領域いくつかの星座設定された。また、当時支配者層である王侯貴族にちなん名付けられ星座作られたが、そのほとんどは88星座採用されなかった。ドイツ天文学者宗教家のジュリアス・シラーは、キリスト教伝聞基づいた星座設定し1627年出版したが、現在はどれも使われていない

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大航海時代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:12 UTC 版)

ヨーロッパ人のアジア進出年表」の記事における「大航海時代以降」の解説

1497年1499年: ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ、ニコラウ・コエリョ、バルトロメウ・ディアスらが、喜望峰まわりで初め海路だけでヨーロッパからインド到達する1500年1501年: ポルトガル人ペドロ・アルヴァレス・カブラルらが、ブラジル発見した後に喜望峰回りインド到達当初艦隊13隻に1500人が乗り込んでおり、バルトロメウ・ディアス、ニコラウ・コエリョ、サンチョ・デ・トーヴァー、シモン・デ・ミランダ、アイレス・ゴメス・ダ・シルヴァ、ヴァスコ・デ・アタイーデ、ディオゴ・ディアス、シモン・デ・ピナ、ルイース・ピレス、ペロ・ヴァス・デ・アタイーデ、ヌノ・レイタン・ダ・クーニャらが船長であった。ルイース・ピレスはブラジル到達以前カーボベルデ分かれポルトガル帰った。ガスパル・デ・ラモスもしくはアンドレ・ゴンサルヴェスのどちらかが、ブラジル到達後にポルトガル引き返し南アメリカ発見報告した。ヴァスコ・デ・デ・アタイーデ、バルトロメウ・ディアス、シモン・デ・ピナ、アイレス・ゴメス・ダ・シルヴァの船は、喜望峰付近遭遇した嵐により沈没した。ディオゴ・ディアスの船は途中で分かれてマダガスカル発見した。彼はその後ヨーロッパ人として初め海路のみで紅海入った。ヌノ・レイタン・ダ・クーニャ、ニコラウ・コエリョ、サンチョ・デ・トーヴァー、シモン・デ・ミランダ、ペロ・ヴァス・デ・アタイーデらはインド到達した。この艦隊には、著述家のペロ・ヴァス・デ・カミーニャや、フランシスコ会士エンリケ・デ・コンブラらが乗船していた。 1501年?: ジョアン・ダ・ノーヴァポルトガル艦隊が三回目インド到達その道中でアセンション島1501年)、セントヘレナ島1502年)を発見した1502年1503年: ヴァスコ・ダ・ガマインド自身2回目到達1503年1504年: アフォンソ・デ・アルブケルケが、ポルトガルとして5度目インド到達インドにおける最初拠点コーチ獲得する1505年: フランシスコ・デ・アルメイダが、初代インド副王任じられる。彼は1505年3月25日22隻の艦隊カラック14隻、キャラベル船6隻、船員1000人、兵士1500人)を率いてリスボン出発し9月13日にアンジェディヴァ島に到達した彼の息子ロウレンソ・デ・アルメイダは、インド南岸探検してセイロン島到達した1507年1513年: 1507年アフォンソ・デ・アルブケルケペルシア海峡ホルムズ占領するその後1508年第二インド副王任じられ1510年ゴア占領した。これ以降ゴアインドにおけるポルトガル一大拠点として栄えた1509年: ディオゴ・ロペス・デ・セケイラ海路マラッカ発見1511年: アフォンソ・デ・アルブケルケマラッカ占領する。これ以降マラッカ東南アジアにおけるポルトガル最重要戦略拠点となる。マラッカ制圧確実にした後で東方香料諸島モルッカ諸島)の情報得たアルケブルケは、11月にアントーニオ・デ・アブレウ率いる3隻の遠征隊を派遣して探検させた。同年ポルトガルアユタヤ王国使節派遣する。彼はおそらく、タイ足を踏み入れた最初のヨーロッパ人であった。この5年後アユタヤポルトガル国内での貿易認めた1512年初頭: アントニオ・デ・アブレウらが、マレー人水先案内人として、ジャワ島小スンダ諸島アンボン島経由してバンダ諸島到達遠征隊は1か月ここにとどまりナツメグメース、また中継貿易によってバンダもたらされていたクローブなどを購入したアントニオ・デ・アブレウアンボン経由してマラッカ帰還したが、副官フランシスコ・セラーンはさらにモルッカ諸島奥深く進もうとして遭難しテルナテ王国流れ着いた後、要塞築いた傭兵として戦ったしながらここで生涯終えた1513年: アフォンソ・デ・アルブケルケアデン包囲した攻略失敗しその後紅海探検する1513年: ポルトガル人ジョルジ・アルヴァレスが、ヨーロッパ人として初めアフリカ周り海路から中国(明)に到達する上陸地は珠江デルタ内のタマン伝えられている。 1516年-1517年: ポルトガル人ラファエル・ペレストレーリョが、明の広州到達1517年: ポルトガル人フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデタマン次いで広州到達その後ポルトガル王使節として1520年南京北京まで至った1519年1522年: ポルトガル人フェルディナンド・マゼラン率いスペイン艦隊による史上初の世界一周航海。また同時に初め西回り太平洋渡りアジア至ったともいえる。1519年8月10日に5隻270人の艦隊セビリア出発し1520年南アフリカ南部マゼラン海峡発見1521年マリアナ諸島、そしてフィリピンホモンホン島到達マゼランその後マクタンの戦い戦死するが、生き残った船員パラワンブルネイ航海続けポルトガル勢力避けつつモルッカ諸島のティドレに到達する最後フアン・セバスティアン・エルカーノ率いる1隻18人のみが1522年スペイン生還世界一周達成した1524年: ヴァスコ・ダ・ガマインド自身2回目到達1542年: ポルトガル人のアントニオ・ダ・モッタらが中国ジャンク船乗って寧波へ向かう途中で嵐に遭い種子島漂着日本到達した最初のヨーロッパ人となる。(鉄砲伝来1549年: スペインイエズス会士フランシスコ・ザビエルコスメ・デ・トーレスフアン・フェルナンデスらが、日本人ヤジロウアンジロウ)、アントニオジョアン中国人マヌエルインド人のアマダーらとともに日本到来1556年: ポルトガル人ドミニコ会士ガスパル・ダ・クルスが、海路から至ったヨーロッパ人として初め中国キリスト教布教を行う。彼は1556年広州至って1か月ほど宣教行いヨーロッパで初め明朝に関する書物中国誌』を出版した。その中には地理行政区画帝室役人階級官僚制造船技術、遠竹、農業工芸商業衣服宗教社会的な慣習音楽楽器文字教育裁判制度といったあらゆる情報記録されている。 1579年1619年: イエズス会士のトーマス・スティーブンスが、イングランド人としておそらく初めインド到達陸路でここに至った彼は、そのまま1619年インド没した左側1-3目) 右側4-6目) 坤輿万国全図1602年1582年: イタリア人イエズス会士マテオ・リッチポルトガル領マカオから北京まで至り彼の天文学などの知識見込んだ明の万暦帝の命を受けてヨーロッパ人として初め紫禁城に入る。1602年通訳李之藻とともに世界地図坤輿万国全図』を製作し中国人日本人世界観地理学大きな影響与える。 1595年: オランダ人のヤン・ホイフェン・ヴァン・リンスホーテンが、ゴアポルトガル秘密文書から写し取った東洋地図を『東洋におけるポルトガル船による旅行記』(Reys-gheschrift vande navigatien der Portugaloysers in Orienten)にまとめ出版する1598年には英語やドイツ語にも翻訳されそれまで一世紀近くポルトガル海図秘匿独占してきた東洋への航路が他のヨーロッパ諸国にも開かれることになった1599年1614年: ジョン・ミルデンホールとリチャード・ニューマンが、1614年陸路インドアーグラ到達1600年1610年: イングランド人ウィリアム・アダムスオランダ人ヤン・ヨーステン乗せた船が日本漂着ウィリアム・アダムス以後10年にわたり徳川家康顧問務める。 1602年1607年: ポルトガル人イエズス会士ベント・デ・ゴイスが、ヨーロッパ人として初めインドから陸路中国到達する1612年1617年: イギリス人トーマス・コリエットが、陸路インド到達する1615年1618年: イギリス外交官トーマス・ローが、ムガル帝国ジャハーンギール帝への使節としてアーグラ到達する1624年: ポルトガルイエズス会士アンドニオ・デ・アンドラーデが、ヨーロッパ人として初めチベット到達する1626年1627年: ポルトガルイエズス会士エステヴァン・カセラとジョアン・カブラルが、ヨーロッパ人として初めブータン到達する1631年1668年: フランス商人ジャンバティスト・タヴェルニエが、アジア(主にペルシアインドジャワ)へ6度渡航する1656年1669年: フランス旅行家フランソワ・ベルニエが、エジプトサウジアラビア経由してムガル帝国至りアウラングゼーブ帝の宮廷8年滞在する1664年1680年: フランス商人ジャン・シャルダンが、二度にわたりペルシアサファヴィー朝旅する2回目インドまで歩を進めている。 1675年1678年: モルダヴィア出身ニコライ・スパファリーが、康熙帝治下清に赴く

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