大航海時代と北西航路の探求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 07:50 UTC 版)
「北アメリカの探検」の記事における「大航海時代と北西航路の探求」の解説
詳細は「ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化」を参照 ヴァイキングの航海は旧世界において一般的な知識にはならず、1492年に続く最初の数十年まで、ヨーロッパ人はアメリカ全体の存在を知らないままだった。 シルクロードよりも短い中国への交易ルートを確立するため、東アジア(または「インディーズ」地域と呼ばれる)への北西航路を求めてヨーロッパ諸国から多くの探検が開始された。コンスタンティノープルの陥落により、そうした交易ルートが是が非でも必要とされていたのである。また、カスティーリャ王国はアフリカを回ってインドおよび東アジアへと向かうポルトガルが管理していた東側海上交易ルートに代わるものを必要としていた。 1492年8月3日、クリストファー・コロンブスがイサベル1世 (カスティーリャ女王)からの出資を受けて、ウエルバ県にあるパロス・デ・ラ・フロンテーラの港から出航した。バハマ、キューバ、イスパニョーラ島の発見というコロンブスの初航海における手紙は、そのニュースをたちまちヨーロッパ中に広めた。2回目の航海でコロンブスは小アンティル諸島を再発見してその大半を探索し、3回目の航海では南アメリカの北部沿岸を通りながらトリニダード・トバゴを発見した。彼の4回目の航海は中央アメリカ海岸の詳細調査に費やされた。クリストファー・コロンブスの航海は新世界を開いた。 イタリアの航海士兼探検家ジョヴァンニ・カボートは、ヘンリー7世 (イングランド王)の嘱託の下、1497年6月24日に北アメリカ大陸を発見したとされている。彼の発見の正確な位置には議論が残るも、カナダおよびイギリス政府の公式見解では彼はニューファンドランド島に上陸した。ジョヴァンニ・カボート(の航海)を通じたイングランドの存在は、1500年のフアン・デ・ラ・コサ(英語版)の地図で示された。 1499年、ジョアン・フェルナンデス・ラヴラドールはマヌエル1世 (ポルトガル王)による権利許諾を受け、ペロ・デ・バルセロスと共同でグリーンランドに到着し、レイフ・エリクソン以来初めてラブラドル半島 (これは彼ラヴラドールにちなんで名付けられた)を発見することとなった。 帰国後、彼はイングランドの名において航海をするためブリストルに赴いた可能性がある。ほぼ同じ頃、1499年から1502年の間にガスパルとミゲルのコルテ=レアル兄弟はグリーンランド、ラブラドール、ニューファンドランドと命名された海岸を探検して、探索した北アメリカの海岸を「Terra Verde」と名付けた。どちらの探査も1502年のカンティーノ平面天球図(英語版)に記載された。 コロンブスがアジアに到達していなかったことはすぐに理解されたが、それはむしろヨーロッパ人にとって新世界なるものの発見であり、その地は1507年にマルティン・ヴァルトゼーミュラーの地図上で、恐らくはアメリゴ・ヴェスプッチにちなんで「アメリカ」と名付けられた。
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