大航海時代の船旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:09 UTC 版)
「フェルディナンド・マゼラン」の記事における「大航海時代の船旅」の解説
マゼランの時代の航海は現代の船旅のように快適ではなかった。大航海時代の船旅は、まず食べ物は前述のように航海用ビスケット(堅パン)と塩漬の肉や魚が主であり、他には各種の豆類、干しぶどう、干しイチジク、米、蜂蜜、ナッツ、小麦粉、チーズなどを食していた。船には簡単なかまどがあり、海が穏やかであれば暖かいものも食べることはできたが、新鮮な野菜や肉は無くあまり美味しいものではなかった。それは塩漬肉を豆や米などと共に煮込んだようなもので、マゼランの航海の50年後のスペイン人航海者エウヘニオ・デ・サラサールは「腐っているかのような、未開人のシチューのような味がした-引用 -ドルネー(1992)p.179」と形容している。しかし、海が荒れるとそれすらも食べられなくなる。堅パンや穀類、チーズは日が経つと蛆やコクゾウムシが湧き、塩漬肉は悪臭を放つ。ピガフェッタもネズミや虫に彼らのビスケットを食い荒されている様を記述している。ただし、船上では魚釣りが盛んに行われ、釣り上げた魚は貴重な生鮮食品であった。マゼランらはパタゴニアではペンギンやアザラシも捕り、とくにペンギンは大量に捕まえ食料にしていた。コロンブスの航海のように1ヶ月強の航海であるならばともかく、バスコ・ダ・ガマやマゼラン、フランシス・ドレークらのように数ヶ月も寄港しない航海者達は壊血病に苦しむことになり、この時代の船員の死亡率は非常に高かった。主食が堅パンや塩漬の肉のようなものであるにもかかわらず、船では真水は貴重であり、トマス・デ・ラ・トルレという司祭が1544年の航海について記した記録では、1日に約1リットルしか配分されなかったとしている。 マゼランの艦隊は、太平洋の真ん中で食料が尽き、訪れた上陸先で手に入るもので間に合わせるしかなくなった。彼らの寄港地はパタゴニア以外はほとんどは熱帯であり、食料は豊富であったが、保存がきく食べ物は米くらいしかなく、アジアから喜望峰経由で帰国するインド洋と大西洋の航海ではピガフェッタらのビクトリア号の食料は米ばかりであった。その米も途中で尽き香料諸島を出発した時には60人いたビクトリア号の乗組員だが、半数以上は航海途中で壊血病と栄養失調で死んでいる。 船室について、船長や副長など指揮官クラスは船室を与えられていたが、一般の乗組員には特に乗組員用の船室はなく、暖かいときは甲板で、寒いときには荷物を積んだ船倉で荷物の間にスペースを見つけて休んでいたらしい木造の船で各種の荷物を満載した船では油虫やネズミも発生する。体を洗う設備もなく、海水を汲み上げて体や衣服を洗っていたが、着替えが沢山あるわけでもなく、石鹸も無い環境ではシラミに悩まされ、悪臭が常にまとわり付いていたと思われている。 トイレについて、大航海時代の船には特にトイレはなかった。排泄は舷側から海上に張り出した箱のようなものを使用していたが、その箱は真ん中が抜けていて真下は海である。直接、海に落とすわけである。しかし小さな船ではそれさえなく、ロープにつかまり舷側から尻を海側に突き出して排泄したらしい。嵐の中では海上に張り出した底の抜けたような箱を使ったり、ロープにつかまって尻を海上に突き出すような排泄はできず、船倉は悪臭が漂うことになる。 航海中の勤務は3交代、日の出から日没まで、日没から夜半まで、夜半から日の出までの3組に別れて勤務に就いた。また、長期間の航海で傷んだ船は、陸に引き上げ横倒しにして船底の保守も必要であった。
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