マゼランの航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 23:50 UTC 版)
「フェルディナンド・マゼラン」も参照 1521年3月16日、ポルトガル人の航海士フェルディナンド・マゼランはセブ島に到着した。彼はスペイン王の命を受け探検の途中で、欧州でも有名なモルッカ諸島への西回り航路を開拓し島々の実態を調べ、東方にスペインの領土を広げることが可能か調査することが旅の目的だった。マゼランのマライ人奴隷エンリケは上陸後、言葉がかろうじて通じると言った。マゼランはかつて船乗りとして訪れたマライ語圏に戻ってきたこと、世界を一周したことを悟った。 マゼランはセブの領主、ラジャ・フマボンを説得し、スペイン王カール5世への忠誠を宣誓させた。スペイン人のドミニコ会修道士が同乗していたことで、この航海はフィリピンへのキリスト教宣教の第一波となった。4月14日、マゼランは大きな木の十字架をセブの海岸に立て、400人ほどのセブ人が洗礼を受けた。セブの王と王妃も洗礼を受け、スペイン王夫妻に敬意を表してそれぞれカルロスとフアナという洗礼名を受けた。後にセブの守護聖人になる幼きイエスの像、サント・ニーニョ像もスペイン側とセブ側の平和の証として王妃に手渡された。 セブでの宣教と同盟の成功に勇気づけられ、マゼランは隣のマクタン島との海峡を渡った。マクタンにはムスリムの領主(ダトゥ)ラプ=ラプがいた。4月27日、両者の間に戦闘が起こり、マゼランは戦死し部下達は島の住民に追い返された。歴史家で年代記作家のアントニオ・ピガフェッタは、部下達がスパイスや宝石を島民に差し出そうとしてもマゼランの遺骸は取り戻すことができなかったと書く。後にラプ=ラプはフィリピン人の侵略者に対する抵抗の象徴となり、現在はマクタン島にマゼランの布教をたたえた記念碑とラプ=ラプの戦いをたたえた記念碑が隣同士に建っている。 マゼランの部下の一人、フアン・セバスティアン・エルカーノは指揮を引き継ぎ、破損の激しいコンセプシオン号を焼き捨て、2隻になった残存艦隊を引き連れてスペインに戻った。彼らはセブに来た時の西回り航路とは反対方向の東回り航路をとったため、彼らは初めて世界を一周した者たちとなった。
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