マゼランの死後
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「フェルディナンド・マゼラン」の記事における「マゼランの死後」の解説
マゼランの死後、艦隊はマゼランの親族に当たる者を後継の指揮官にしていたが、後継の指揮官を含め艦隊幹部多数がセブ王に殺される。 アントニオ・ピガフェッタの記録やトランシルヴァーノの調書によれば、マゼランの死後、負傷したエンリケは通訳の仕事を放棄して艦内で横になっていた。マゼランの後を継いだ艦隊の指揮官は仕事を放棄しているエンリケを 主人のマゼランが死んだからといって自由になったと思ったら大間違いだ。スペインに帰ったら未亡人のベアトリス様の奴隷になるのだ。今上陸しなかったら鞭を食らわすぞ — ピガフェッタ(2011)、p.122 と脅し、エンリケはセブ王の元に使わされた。 戻ってきたエンリケは艦隊首脳に「セブ王が宴会へ招待」の報をもたらしたが、宴会に出席した艦隊首脳24人のほとんどが殺されることとなってしまった。ピガフェッタや同行の乗組員の推測ではエンリケがセブ王と謀って、マゼランの遺書ではエンリケはマゼランの死後には解放されるはずなのに遺書を無視して自分の解放を認めようとしなかったマゼランの後継者に復讐を遂げたのだとされている。その後のエンリケの消息は分かっていない。 大幅に人員が減り3隻の運行が難しくなった艦隊はコンセプシオン号を破棄、残るトリニダード号とビクトリア号は迷走しながらも1521年11月8日香料諸島にたどり着く。香料諸島では王の厚遇を得て大量の丁子(クローブ)を積むが、丁子を積みすぎてトリニダード号は浸水。艦隊は修理に取り掛かったトリニダード号を香料諸島に残し(4ヶ月後に修理がかなったトリニダード号だが結局はポルトガルに拘束され、3年後に乗組員のうち4人が帰国するのみである)、フアン・セバスティアン・エルカーノを船長としてビクトリア号1隻60人の人数で香料諸島を出発する。ポルトガルの勢力圏内で途中の港に立ち寄れないスペイン船ビクトリア号は壊血病と栄養失調で多くの死者を出しながらも1522年9月6日スペインに帰国する。スペイン帰国時の乗組員は21名、内3人は途中で乗せたマレー人なので、出発時約270人の乗組員のうち世界周航を達成できたのはエルカーノや艦隊の記録を書いたピガフェッタら18人だけであった。ほぼ3年にわたる航海であった。 なお、ピガフェッタは出航以来毎日欠かさず日記を付けているが、ビクトリア号が世界一周達成を目前にアフリカの西にあるヴェルデ岬諸島に立ち寄ったとき、ピガフェッタの日記では水曜日であるはずがヴェルデ岬諸島では木曜日であることを知り大変驚いている。21世紀の現代人にとっては地球を西回りに1周すれば日付が1日遅れるのは当たり前であるが、人類初の世界一周の記録者ピガフェッタは地球一周による日付のずれを実感した最初の人間になったのである。 その後、スペインは上流貴族ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサを名目上の指揮官、マゼラン艦隊での最終的な指揮官エルカーノを実質上の指揮官にした西回りでの第二の艦隊を送り出すがロアイサの艦隊はマゼラン艦隊以上の損失を出し失敗。ロアイサもエルカーノも太平洋上で死んでしまう。その後も西回りで送り出すスペインの艦隊はことごとく失敗。マゼランが発見した西回り航路は危険が大きすぎるためにポルトガルへ売却されることになり、ポルトガルも西回りでの航海には興味は持たず、結局はヨーロッパから西回りでの香料貿易ルートは閉ざされることになる。こうしてマゼランが開拓しようとした西回りでのアジア航路は失敗に終った。しかしマゼランの功績は世界史的な意味では、大洋としての太平洋を発見し(海洋の存在はバルボアが発見したが、バルボアは太平洋が大洋であることは認識しておらず、見つけた海の名もMar del Sur「南の海」としている。)、地球の大きさを直接に認識(間接的にはエラトステネス以来の測定があった)し世界に指し示したことだと考えられている。 ヨーロッパ人に伝わる伝説ではマゼラン海峡で南米大陸から分かたれたフエゴ島は、南半球に広がる仮説上の「未知の南方大陸」の一部とみなされた。フエゴ島、オーストラリア、南極大陸を包括した架空の大南極大陸は、Terra Australiaと呼ばれることも多いが、メガラニカ(MAGALLANICA)と呼ばれることもある。
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