アジア航路とは? わかりやすく解説

アジア航路 (1932-1943)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:06 UTC 版)

コンテ・ヴェルデ (客船)」の記事における「アジア航路 (1932-1943)」の解説

1932年世界恐慌余波によるイタリア海運業再編で、ロイド・サバウドは新会社イタリアン・ラインに吸収合併される。同年新造客船レックスコンテ・ディ・サヴォイア花形大西洋航路就航し、コンテ・ヴェルデなど前世代の船は他航路振り向けられた。 コンテ・ヴェルデはトリエステ本社を置くロイド・トリエスティノ(現・イタリア・マリッティマ(英語版))の所有となり、トリエステ上海間を結ぶアジア航路に就航した船内設備全面的に改装され客室定員削減する一方アジア方面貨物増大対応して貨物スペース拡張し機関換装した。 トリエステから上海まで24日要したが、同航路の船としては俊足であったサンフランシスコ有名店カフェ・トリエステの創業者ジョヴァンニ・ジョッタは,この時期乗組員一人であり、船内設備サービス豪奢さに強い印象受けている。こうした速力設備で、少なくとも就航当初はアジア航路の他社に対して優位に立った1937年9月1日、コンテ・ヴェルデは香港停泊中に台風遭遇し暴風走錨日本郵船浅間丸右舷船尾衝突した衝突後、浅間丸錨鎖切断され両船とも沖合流されて座礁した。コンテ・ヴェルデは香港島東端の黒角頭岬北西側座礁したが、浅間丸離礁半年要したのに対し、コンテ・ヴェルデは1ヶ月離礁し、応急修理の上航路復帰した1938年11月には、イタリア人類学者フォスコ・マライーニアイヌ研究のため本船来日している。その経緯長女ダーチャ著作語られている。また、マライーニ友人であり、戦後大阪外国語大学教鞭をとったアレッサンドロ・ベンチヴェンニも同じ航路来日した。ベンチヴェンニは乗船時の記憶をもとに、京都府京都市下京区フランソア喫茶室内装設計している。 1938年から1940年にかけて、コンテ・ヴェルデを含むイタリアの上海航客船は、ナチス・ドイツ追われユダヤ人難民1万7,000人を輸送した。彼らが上海目指し理由として、世界各国難民受け入れ難色を示す中、上海戦時混乱のため無審査入国できたこと、また在上海ユダヤ人による一定の支援期待できたことなどが挙げられる。しかし、上海へ乗船券入手には多大な困難を要し、全財産をはたく難民もいた。一方でイタリア人船員多く難民に対して同情的接した1940年10月イタリア第二次世界大戦参戦したことにより、上海航路無期停止し難民輸送中断した上海停泊していたコンテ・ヴェルデは、帰国方途失った。なお、参戦イタリアにいた姉妹船コンテ・ロッソは兵員輸送動員され,翌1941年5月24日イギリス潜水艦雷撃沈没している。

※この「アジア航路 (1932-1943)」の解説は、「コンテ・ヴェルデ (客船)」の解説の一部です。
「アジア航路 (1932-1943)」を含む「コンテ・ヴェルデ (客船)」の記事については、「コンテ・ヴェルデ (客船)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アジア航路」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アジア航路」の関連用語

アジア航路のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アジア航路のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのコンテ・ヴェルデ (客船) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS