アジア航路 (1932-1943)
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「コンテ・ヴェルデ (客船)」の記事における「アジア航路 (1932-1943)」の解説
1932年、世界恐慌の余波によるイタリア海運業の再編で、ロイド・サバウドは新会社イタリアン・ラインに吸収合併される。同年、新造客船レックスとコンテ・ディ・サヴォイアが花形の大西洋航路に就航し、コンテ・ヴェルデなど前世代の船は他航路へ振り向けられた。 コンテ・ヴェルデはトリエステに本社を置くロイド・トリエスティノ(現・イタリア・マリッティマ(英語版))の所有となり、トリエステ~上海間を結ぶアジア航路に就航した。船内設備は全面的に改装され,客室定員を削減する一方、アジア方面の貨物量増大に対応して貨物スペースを拡張し、機関も換装した。 トリエステから上海まで24日を要したが、同航路の船としては俊足であった。サンフランシスコの有名店カフェ・トリエステの創業者ジョヴァンニ・ジョッタは,この時期の乗組員の一人であり、船内設備とサービスの豪奢さに強い印象を受けている。こうした速力と設備で、少なくとも就航当初はアジア航路の他社船に対して優位に立った。 1937年9月1日、コンテ・ヴェルデは香港停泊中に台風に遭遇し暴風で走錨、日本郵船の浅間丸の右舷船尾に衝突した。衝突後、浅間丸は錨鎖が切断され両船とも沖合に流されて座礁した。コンテ・ヴェルデは香港島の東端の黒角頭岬北西側で座礁したが、浅間丸が離礁に半年を要したのに対し、コンテ・ヴェルデは1ヶ月で離礁し、応急修理の上で航路に復帰した。 1938年11月には、イタリアの人類学者フォスコ・マライーニがアイヌ研究のため本船で来日している。その経緯は長女ダーチャの著作に語られている。また、マライーニの友人であり、戦後大阪外国語大学で教鞭をとったアレッサンドロ・ベンチヴェンニも同じ航路で来日した。ベンチヴェンニは乗船時の記憶をもとに、京都府京都市下京区のフランソア喫茶室の内装を設計している。 1938年から1940年にかけて、コンテ・ヴェルデを含むイタリアの上海航路客船は、ナチス・ドイツを追われたユダヤ人難民約1万7,000人を輸送した。彼らが上海を目指した理由として、世界各国が難民受け入れに難色を示す中、上海は戦時の混乱のため無審査で入国できたこと、また在上海ユダヤ人による一定の支援を期待できたことなどが挙げられる。しかし、上海への乗船券の入手には多大な困難を要し、全財産をはたく難民もいた。一方で、イタリア人船員の多くは難民に対して同情的に接した 。 1940年10月、イタリアが第二次世界大戦に参戦したことにより、上海航路は無期停止し難民輸送は中断した。上海に停泊していたコンテ・ヴェルデは、帰国の方途を失った。なお、参戦時イタリアにいた姉妹船コンテ・ロッソは兵員輸送に動員され,翌1941年5月24日にイギリス潜水艦の雷撃で沈没している。
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