アジア観
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1909年(明治42年)10月18日付の『東京朝日新聞』に掲載された随筆『満韓の文明』の記事において、漱石は以下の通り記述している。 此の度旅行して感心したのは、日本人は進取の気性に富んで居て、貧乏世帯ながら分相応に何処迄も発展して行くと云う事実と之に伴う経営者の気概であります。満韓を遊歴して見ると成程日本人は頼母しい国民だと云う気が起ります。従つて何処へ行つても肩身が広くつて心持が宜いです。之に反して支那人や朝鮮人を見ると甚だ気の毒になります。幸いにして日本人に生れていて仕合せだと思いました。 — 満韓の文明 8日後の10月26日に伊藤博文がハルビン駅で暗殺された後、11月6日付の『満洲日日新聞』に掲載された随筆『韓満所感(下)』の記事では、漱石は以下の通り記述している。 歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。内地に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた。同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ。 — 韓満所感 『韓満所感』は2013年に発掘された随筆であるが、比較文学者の平川祐弘は、「漱石は植民地帝国の英国と張り合う気持ちが強かったせいか、ストレートに日本の植民地化事業を肯定し、在外邦人の活動を賀している。日韓併合に疑義を呈した石黒忠悳や上田敏のような政治的関心は示していない。正直に『余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た』『余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた』と書いている。『まあ』に問題はあろうが、ともかくも日本帝国一員として発展を賀したのだ」と評している。
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