世界恐慌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 23:15 UTC 版)
世界恐慌または大恐慌(せかいきょうこう/だいきょうこう、英: The Great Depression)とは、1930年代にアメリカを皮切りに世界的に起こった深刻な経済恐慌のことである。世界恐慌の時期は国によって異なるが、ほとんどの国では1929年に始まり、1930年代後半まで続いた[2]。それは20世紀の中で最も長く、最も深く、最も広範な不況であった[3]。世界恐慌により日本国内で起きた不況のことを昭和恐慌という。世界恐慌は、世界経済がいかに激しく衰退するかの例として一般的に使われている[4]。
注釈
- ^ 靴磨きの少年の名前はパット・ボローニャという。このエピソードはバブルの本質を表しているが、事実関係は明らかでない。ジョセフがいつどこで述べたかも不明である。株価暴落には仕掛け人がおりジョセフが関係者であるという説は根強い。息子であり大統領であるJFKの妻ジャクリーヌの実家ブビエ家も大恐慌前に売り抜けた証券取引人であり、これがこの疑惑を強化している。後にジョセフが初代証券取引委員会 (SEC) 委員長となって辣腕で証券業界を取り締まり、政界進出を果たしたことも疑いを深めている。なお、ケネディと並ぶ当時の投機屋としてジェシー・リバモアが知られている。
- ^ これは5日前に続く記録更新であり、以後1969年まで破られなかった。
- ^ ダウ平均で12%
- ^ これは当時のアメリカ合衆国連邦政府年間予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回った。
- ^ パリ連合銀行とも。1906-1910年の間、露清銀行と合併した北方銀行に資本参加していた。戦後、ロスチャイルドと原子力企業COFINATOME を支配した。1970年代、スエズ金融が商工信用銀行を支配する代わりに、パリバが自身の傘下となったばかりのクレディ・デュ・ノルへユニオン・パリジェンヌを吸収した。クレディ・デュ・ノルは元々ソシエテ・ジェネラルが支配していた。1997年から再びソシエテ・ジェネラルが支配している。
- ^ ウォルムズ銀行は英名。フランス語ではヴォルム銀行。第二次世界大戦中ヴィシー政権と癒着した。戦後ミッテランが出るまで国有化されなかった。
- ^ 同名の父親 (1844-1907) は、オスマン銀行の監査(1874-1877) とソシエテ・ジェネラルの重役 (1880-1890) を務めた。
- ^ 名前がSOFFOと似たSociete Financiere pour les Pays d'Outre-mer (SFOM) はスイス銀行のシンジケートで、15のアフリカ系銀行を傘下に収めた。SFOM には、ランベール、コメルツ銀行、バンカメなどが参加している。ランベールの参加事実は出典が出せる。[24]
- ^ ブロック経済は自前の植民地経済圏を保持していた大国が採った対応策の一つ。帝国主義論によれば「植民地獲得競争で後れを取っていたドイツ・イタリア・日本の対外拡張主義暴発の要因となる」と説明されナチスの生存圏理論が引き合いに出されるが、時間軸上では枢軸国の海外進出政策とブロック経済は必ずしも因果関係や前後関係にない。
- ^ 当時の大経済学者アーヴィング・フィッシャーエール大学教授の所論でもあった
- ^ 金本位制による通貨で現在価値で約40兆5千億円
- ^ 家畜、農産物、工業製品などで、ドイツは約450億金マルクと算定していた。
- ^ 金解禁は1930年1月から1931年12月10日まで。当時金価格は1トロイオンス$20.67、4.25スターリングポンドであった。戦後はニクソンショックまで1トロイオンスあたり$35の固定相場である。今1トロイオンスの地金は約8万円なので、$1億=現在金価値約4000億円相当と考えられる(2008年10月現在)。ただし、当時の経済規模を考えると10倍以上のインパクトがあったと思われる。
出典
- ^ 竹中悠美「FSA写真再考 : 大恐慌期アメリカのドキュメンタリーにおける貧しき者への眼差し」『社会科学』第45巻第3号、2015年11月26日、12頁。
- ^ John A. Garraty, The Great Depression (1986)
- ^ Charles Duhigg, "Depression, You Say? Check Those Safety Nets", The New York Times, March 23, 2008.
- ^ Barry Eichengreen, Hall of Mirrors: The Great Depression, The Great Recession, and the Uses-and Misuses-of History (2014)
- ^ Roger Lowenstein, "History Repeating," Wall Street Journal Jan 14, 2015
- ^ Garraty, Great Depression (1986) ch1
- ^ Frank, Robert H.; Bernanke, Ben S. (2007). Principles of Macroeconomics (3rd ed.). Boston: McGraw-Hill/Irwin. p. 98. ISBN 978-0-07-319397-7
- ^ “Commodity Data”. US Bureau of Labor Statistics. 2008年11月30日閲覧。
- ^ Willard Cochrane (1958). Farm Prices, Myth and Reality. p. 15.
- ^ “World Economic Survey 1932-33”. League of Nations: 43.
- ^ Mitchell, Depression Decade
- ^ 奥西・鴋澤・堀田・山本(2010)pp.279-281
- ^ 祝迫(2006)
- ^ 奥西・鴋澤・堀田・山本(2010)pp.283-284
- ^ a b c 小林真之「両大戦間期のアメリカ投資信託」『北海学園大学経済論集』第60巻第4号、北海学園大学経済学会、2013年3月、1-21頁、ISSN 0385-7263、NAID 120005270787。
- ^ ガルブレイス、村井(2008)pp.20-25
- ^ キャメロン、ニール、速水(2013年)pp.225-229
- ^ a b 奥西・鴋澤・堀田・山本(2010)pp.283
- ^ a b 安保(1984年)p.133
- ^ 国際連盟主催の、ジェノア会議に次ぐ第2回大会。World Economic Conference of 1927
- ^ ニューヨーク・タイムズ。金融機関名が出ている検索画面 記事のメインページ ちなみにCZARとはツァーリを意味する。フランクリン・ルーズベルトとマクシム・リトヴィノフによる1933年の米ソ国交回復が落としどころになったと見られる。
- ^ a b Les entreprises coloniales francaises, "SOCIÉTÉ FINANCIÈRE FRANÇAISE ET COLONIALE(SFFC)(1930-1949)", Mise en ligne: 15 avril 2014. Dernière modification: 9 janvier 2016.
- ^ Les entreprises coloniales francaises, "LA SFFC-SOFFO EN INDOCHINE", Mise en ligne: 30 septembre 2014. Dernière modification: 16 mai 2016.
- ^ Handbook on the History of European Banks, Edward Elgar, 1994, p.76.
- ^ Creditanstalt, クレディ・アンシュタルトとも。
- ^ Ben S. Bernanke "The Macroeconomics of the Great Depression: A Comparative Approach," Journal of Money, Credit, and Banking, 27(1), 1995.
- ^ US DoC>Bureau of Economic Analysis>National Economic Accounts>Interactive Table Home>Table Selection>View Table
- ^ a b オフィステクスト・三菱総合研究所政策経済研究センター『手にとるように経済がわかる本』かんき出版、2009年、46頁。
- ^ US DoL>Bureau of Labor Statistics>Publications>Compensation and Working Conditions
- ^ 7段落に詳細。ワシントン大学 The Banking Crisis of 1933:Seattle’s Survival during the Great Depression Bank Closures
- ^ 朝日新聞「天声人声」2015年8月26日[1]
- ^ 片桐謙『アメリカのモーゲージ金融』日本経済評論社 1995年 第2章
- ^ a b 河邑厚徳『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』NHK出版 2007年 188-190頁
- ^ Whitehouse>OMB>Historical Tables>24page Table 1.2 SUMMARY OF RECEIPTS, OUTLAYS, AND SURPLUSES OR DEFICITS AS PERCENTAGES OF GDP 1930-2017
- ^ a b The Economist:1930年代の教訓:行く手に潜む落とし穴
- ^ a b 中村政則『昭和の歴史 第2巻』小学館 1994年
- ^ 毎日新聞社「週刊エコノミスト」1998年6月30日号「恐慌から回復への政策」林敏彦[2][3]
- ^ 中野, 清水編 2019, pp. 311–313.
- ^ 鈴木 2002, pp. 2–3.
- ^ International data from Bolt, J., van Zanden, J. L.. “economic growth in the world economic between AD 1 and 2010”. 2013年3月24日閲覧。. Gold dates culled from historical sources, principally Barry Eichengreen (1992). Golden Fetters: The Gold Standard and the Great Depression, 1919-1939. New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-506431-3
- ^ 金井雄一「基軸通貨ポンドの衰退過程に関する実証的研究」『科学研究費補助金報告書;基盤研究』(C)(2);14530093, 2005年
- ^ 浜矩子「ザ・シティ 金融大冒険物語 第18回 シティから金が消えた日」エコノミスト 2009年2月24日 71頁
- ^ 『ウォール街の崩壊』講談社
- ^ 「ルール地方案内」在デュッセルドルフ日本国総領事館2009年7月[4] p.5
- ^ 林昭男「<論説>第1次大戦後におけるフランスのインフレーションと通貨政策」『商學討究』第25巻第4号、小樽商科大学、1975年3月30日、23-44頁、NAID 110000231164。, hdl:10252/2475
- ^ a b 竹岡敬温「世界恐慌と経済政策 フランスの経験」『經濟史研究』2011年 14巻 p.27-46, doi:10.24712/keizaishikenkyu.14.0_27, 大阪経済大学日本経済史研究所
- ^ 「金本位制・国際通貨制度とケインズ」松川周二(立命館経済学56巻特別号8)[5] p.14
- ^ 和多則明「世界恐慌期フランスにおける経済政策の機能」『Etudes francaises』第19巻、大阪外国語大学、1983年6月25日、93-105頁、NAID 110006178922。
- ^ 竹岡敬温「世界恐慌と1929-1931年のフランス経済」『經濟學論究』第52巻、関西学院大学、1999年9月19日、1-37頁、NAID 110000405989。
- ^ 川瀬泰史 2005, pp. 23.
- ^ 川瀬泰史 2005, pp. 30.
- ^ a b 大島通義「「危機」の年(1938年)の財政過程 : 国防軍財政を中心として」『三田学会雑誌』第80巻第6号、慶應義塾経済学会、1988年、547(1)-577(31)、NAID 120005350373。
- ^ 「財務省今昔物語4」寺井順一(財務総合政策研究所主任調査官)[6][7]
- ^ 中島直人、西村幸夫「1930年代前半における都市美協会による「都市美委員会」設置の提案に関する研究」『日本建築学会計画系論文集』第557号、社団法人日本建築学会、2002年7月30日、241-248頁、NAID 110004081720。
- ^ 寺岡寛「平沢照雄『大恐慌期日本の経済統制』日本経済評論社 2001年」『中京経営研究』第12巻第2号、中京大学、2003年2月、275-284頁、NAID 110006604442。
- ^ 新保博彦「戦前日本の海外での企業活動」『大阪産業大学経済論集』第9巻第2号、大阪産業大学、2008年2月、121-153頁、NAID 110006959366。
- ^ 平沢照雄「1930年代日本における中小工業統制と産業協力活動 : 電球硝子工業の事例」『歴史と経済』第50巻第1号、政治経済学・経済史学会、2007年10月30日、1-14頁、doi:10.20633/rekishitokeizai.50.1_1、NAID 110006420230。
- ^ 加藤道也「戦間期日本における失業問題と金融政策」『大阪産業大学経済論集』第9巻第1号、大阪産業大学、2007年10月、37-60頁、NAID 110006959361。
- ^ 石田潤一郎、金珠也「9161 朝鮮都市経営株式会社の事業概要-設立期を中心に : 朝鮮都市経営会社の住宅地開発に関する研究 その1(都市史:アジア,建築歴史・意匠)」『学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠』第2007巻、社団法人日本建築学会、2007年7月31日、321-322頁、NAID 110006643183。
- ^ 高宇「「水産工業」戦略の展開(上) : 日本食料工業の場合」『立教経済学研究』第61巻第1号、立教大学、2007年7月10日、103-118頁、NAID 110006378381。
- ^ 小堀聡「戦間期日本におけるエネルギー節約政策の展開 : 燃焼指導に着目して」『歴史と経済』第49巻第3号、政治経済学・経済史学会、2007年4月30日、48-64頁、NAID 110007030257。
- ^ 北川勝彦「1930年代における日本のモロッコ貿易をめぐる諸問題 : 外務省記録を中心にして」『關西大學經済論集』第56巻第1号、関西大学、2006年6月15日、53-75頁、NAID 110006159102。
- ^ 東京国際空港、あじあ号、冷凍食品、霞ヶ浦干拓、東京緑地計画協議会、白水溜池堰堤
- ^ 島一郎「世界恐慌と中国製糸工業」経済学論叢 21 (5・6) 28-83頁 1973年11月
- ^ OECD『Monitoring The World Economy 1820 - 1992』1995年8月17日
- ^ 倉田有佳「トランスボーダーの人流: 1930年代初頭ロシア極東から北海道に避難・脱出した事件を中心に」(PDF)『「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集』第17号、北海道大学スラブ研究センター、2006年9月、67-80頁、NAID 40015138030。
- ^ アンドリュー・ボイル著「裏切りの季節」 Climate of Treason
- ^ 直接の引用は「現代経済学全集第28巻」金本位制と世界恐慌 高垣虎次郎(日本評論社 昭和7年10月25日発行)
- ^ 有斐閣『経済辞典』p.414
- ^ The Boston Globe "Nobel laureate economist Milton Friedman dies at 94" 2006-11-16
世界恐慌 (1900年~1941年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:09 UTC 版)
「パインブラフ (アーカンソー州)」の記事における「世界恐慌 (1900年~1941年)」の解説
アーカンザス川沿いに位置しているパインブラフは、河川交通や交易に頼っていた。市の指導者たちは、川の本流が市から離れることを危惧していた。アメリカ陸軍工兵司令部は市の向かい側に堤防を建設し、川の流れを市の近くに保とうとした。後の洪水で、本流は市から離れ、小さな三日月湖(後にパインブラフ湖に発展する)が残された。河川交通が減退しても、川は郡の一部分と他の部分との障害であった。地域で多くの議論がなされた後、増税を伴う債券の発行によって、郡はフリー・ブリッジを1914年に開通させた。これにより、郡は初めて永続的に統合された。 パインブラフの黒人は1891年から1892年にかけて公民権を剥奪され、政治から排除された。しかし彼らは権利のために取り組みを続けた。1903年に一連のジム・クロウ法の一部として制定された路面電車隔離法に抗議するため、リトルロックやホットスプリングスでの路面電車のボイコットをしている活動家に参加した。しかし変化を成し遂げることはできなかった。 市の商業地域では急速に経済が成長した。1904年に完成したメソニック・ロッジは、当時パインブラフで最も高い建物であった。1912年に完成したホテル・パインズは、手の込んだ大理石のインテリアとクラシカルなデザインを備えた、アーカンソーで最高級のホテルとみなされていた。1924年に建設された、1,500座席を有するセンガー・シアターは州内で最大級の施設で、州で最も大きなパイプオルガンがあった。1914年に完成したドラーウェイ・ロードは、一続きのコンクリート舗装の道路としてはアメリカで最長を誇っていた。1922年2月18日には州で最初のラジオ局(WOK)がパインブラフで放送を開始した。 2回の自然災害によって地域の経済は壊滅的な打撃を受けた。1927年のミシシッピ大洪水は100年に1度の規模であった。堤防が決壊し、ジェファーソン郡北部、南東部の大半は浸水した。1930年には深刻な干ばつが発生のために不作に陥り、世界恐慌による経済情勢の悪化にさらなる拍車をかけた。パインブラフの住民は生き残るために奮闘した。1930年、市の大きな銀行が2行倒産した。 パインブラフとアーカンソー州南東部の町との間での流通を促進するため、1920年代後半から1930年代にかけて州の高速道路が建設された。1933年にフランクリン・ルーズベルト大統領が就任した後、地方の自治体に利益をもたらすために、彼は多くの政府プログラムに着手した。公共事業促進局(WPA)などによる公共事業で、パインブラフには新しい学校やサッカースタジアム、市内初のレクリエーション施設であるオークランド・パークなどが整備された。農業の多様化も奨励され、郡は1936年に家畜の飼育場を建設した。 1936年から1938年には、WPAは連邦作家計画を通じて、かつての奴隷についての口述歴史を収集・出版する計画を開始した。作家たちは南部のあらゆる場所に出向き、かつての奴隷にインタビューをした。彼らのほとんどは、南北戦争時にはまだ子どもだった。アーカンソーの奴隷人口は近隣のディープサウス諸州よりも少なかったが、アーカンソーの住民は他の州よりも多くの(約780)口述歴史を提供した。パインブラフやジェファーソン郡の黒人住民は、州内の他のどの市・郡よりも奴隷についてのインタビューに貢献した 。市は貴重な口伝の奴隷体験記の資料を編纂する役割を果たした。 1933年に発生したミシシッピ川の洪水の間に、カントリー歌手のジョニー・キャッシュは市から避難した。
※この「世界恐慌 (1900年~1941年)」の解説は、「パインブラフ (アーカンソー州)」の解説の一部です。
「世界恐慌 (1900年~1941年)」を含む「パインブラフ (アーカンソー州)」の記事については、「パインブラフ (アーカンソー州)」の概要を参照ください。
世界恐慌
「世界恐慌」の例文・使い方・用例・文例
世界恐慌と同じ種類の言葉
- 世界恐慌のページへのリンク