ヤング‐あん【ヤング案】
ヤング案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/25 07:39 UTC 版)
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ヤング案(ヤングあん、Young Plan)は、第一次世界大戦の賠償を緩和する新たな賠償方式で、1924年成立のドーズ案によるドイツの負担をさらに緩和した。1929年2月11日にパリで最初のヤング委員会が行われた。ゼネラル・エレクトリック会長オーウェン・D・ヤングを委員長とするこの委員会には森賢吾とトーマス・ラモントがそれぞれ日米の代表として参加した。詰めの交渉は1929年8月と1930年1月にハーグで行われた。後者の会議でオーストリアの賠償責任が免除された。ヤング案は1930年5月17日に発効し、1929年9月1日に遡及して適用された。
内容
ドーズ案で一旦賠償総額は白紙とされていたが、ヤング案においては賠償の残額を358億1400万ライヒスマルクと定めた。ドイツは1988年までの59年間、年賦の形で支払う。毎年ドイツは、利子とドーズ債の元本支払を含めた平均20億5千万ライヒスマルク相当を外貨によって支払う。1930年は17億ライヒスマルクで、その後21億ライヒスマルクとなり、1966年以降は16.5億ライヒスマルクとなる。実際の支払は遅滞した(#その後)。
日本は賠償支払を受ける国の一つであり、ベルギーを舞台にしたスパ会議(1920年7月)の決定により賠償支払のうち0.75%を受け取っていた。ヤング案においても初年度には1250万ライヒスマルクの支払を受ける権利を持っていたが、サンフランシスコ平和条約第8条C項により対独賠償請求を放棄している。なお、スパ会議で決まった各国の分配率は、フランス52%、イギリス22%、イタリア10%、ベルギー8%、ユーゴスラビア5%であった。
賠償の分配機関として国際決済銀行を創設しており、日本銀行は賠償債権国であることを理由に株主と認められた。しかし、このことが後の金解禁へ向けた見えない圧力となった。出資金は日本興業銀行をはじめとして、三井・三菱・安田・住友という旧財閥系の銀行をふくむ14行がほぼ均等に国債を引受けることで調達された。
その後
世界恐慌の影響で列強が重商主義に傾く中、ヤング案はドイツを除く当事者各国の協調により堅持された。
フランスは特に反対しなかった。代わりにパウル・ファン・ゼーラントを介してアメリカへ接近していった。
ドイツ国内ではアルフレート・フーゲンベルク率いる国家人民党、鉄兜団や全国農村連盟、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)などは、ヤング案は「ドイツ国民奴隷化法」だと反発して反ヤング案闘争を開始した。しかしドイツは合衆国資本で支配されていた。国民投票が行われた結果、94.5%の圧倒的多数の賛成によりヤング案は批准された。
1932年、スイスのローザンヌで行われたローザンヌ会議において、賠償金はさらに今後30億金マルクに減額された。しかし翌年、ナチスによって支払いは一方的に拒否された。その後、アメリカへの戦債は解消しないままであった。
戦後補償を完了するのはドイツ再統一後に利子の支払いを再開してからで、アメリカへの債務は2010年10月3日にようやく終わった。しかし他国への債務はまだ2020年まで残っている。
外部リンク
- 「対独賠償問題の経過と新案の概要」 アジア歴史資料センター Ref.A08071753800
ヤング案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 03:11 UTC 版)
「第一次世界大戦の賠償」の記事における「ヤング案」の解説
詳細は「ヤング案」を参照 1928年頃になるとアメリカ経済が過熱し、ドイツへの資金流入が激減した。ドーズ案では賠償支払額の変更が行えることになっていたが、賠償金総額や支払い年数は定まっていなかった。このためドイツは賠償金総額の確定とその減額を求めていた。1928年9月、オーウェン・D・ヤングを委員長とし、アメリカと日本、そしてドイツ側も参加する新たな委員会設置が決まった。1929年2月11日にはヤング委員会がパリで第一回協議を行った。フランスは年額25億金マルクを主張していたが、ドイツは10億金マルク以内を望んでいた。4月頃には会議決裂も危惧される状況であったが、6月4日にヤング案の大枠が合意され、賠償総額が定まった。 これにより賠償残額は358億1400万ライヒスマルクであると確定し、ドイツは59年賦(最初の37年間は平均19億8800万ライヒスマルクとドーズ公債融資の元本を合わせて20億5000万マルク、残りの22年間は16億から17億ライヒスマルクを支払う)でこれを支払うこととなった。配分はスパ会議での比率が原則となったが、アメリカが約3.3%にあたる6610万マルク、ポーランドが50万マルクの配分を受けている。また、現物賠償についても残り10年で打ち切られることになった。 また賠償金支払いを国家の手から離して非政治化する目的のため、賠償代理機関にかわって国際決済銀行創設が定められた。今後賠償金は国際決済銀行がドイツ政府から徴収し、債権国の中央銀行に分配する形式が取られることとなった。さらに国際決済銀行は、ドイツのライヒスバンクが負担義務をもつ3億ドルの債券(ヤング債)を発行し、売り上げを債権国に支払う形での賠償支払いも行われた。一方でドーズ案で導入されたライヒスバンクやドイツ国有鉄道の連合国による監理措置は終了することになった。 この措置によって賠償金総額はかなり減額され、負担も軽減されたが、ドイツ国内ではヤング案が国民を将来にわたって賠償金支払いに縛り付ける「ドイツ国民奴隷化法案」であるとするキャンペーンが右派を中心に行われ、ヤング案反対の国民投票が行われるに至った(en:German referendum, 1929)。反対派にはヤング案制定に参加したものの、自らがヤングに提案した国際決済銀行構想の矮小化に反発したライヒスバンク総裁ヒャルマル・シャハトも加わっている。結局ヤング案は批准されたが、ドイツにおいて極右派、とくにナチ党の台頭を招くことになる。1929年8月31日にはハーグでヤング案が正式採択され、ラインラントからの連合軍撤退が開始された。その後1930年3月にフランス議会でヤング案は批准され、5月17日に発効した。
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