1930年秋の総選挙で国会第二党に躍進
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「1930年秋の総選挙で国会第二党に躍進」の解説
1930年9月14日の国会選挙はゲッベルスが宣伝全国指導者としてナチ党の宣伝戦全般を指揮した。ヤング案闘争に始まるフーゲンベルクとの連携により1年半かけて整備した党のプロパガンダ組織・体制に自信を持っていたゲッベルスは、「現有12議席を40議席にする」と宣言したが、これについてマスコミ各紙は一度に得票を三倍にした政党などかつて存在したことがないと嘲笑した。 ゲッベルスは7月23日に選挙運動方針を発している。その中で各大管区指導者は選挙戦序盤で全力を使い果たさず一週間ごとに徐々に盛り上げていくべきこと、また当初は各大管区指導者が自前で宣伝活動を行わねばならないが、選挙後半戦から党中央の優良な弁士を送るので彼らが無駄なく会場をハシゴできるよう準備しておくべきことを通達した。そして「大衆デモによって我が党の運動の強さと不屈の闘志が全国いたるところで選挙民に示されるのだ」と予告した。 また選挙のテーマも列挙したが、ゲッベルスの選挙戦術は「何々に反対する」という否定形(ヴェルサイユ条約とその履行政策に反対、ヤング案に反対、戦争犯罪という虚言に反対など)、および「与党(社民党や中央党)は売国政党であり、他野党もヴァイマル共和政を支持する偽装野党であって自分たちのみが真の野党である」といった他党攻撃(ナチ党と同じくヴァイマル共和政体制に反対している共産党すら偽装野党の類とされた)がその大半を占める。ヴェルサイユ条約やヤング案をどう解消するのかという具体案については「強力な外交政策、しかも社会主義的な傾向を持った信頼のできる国内政策と結びついた形で」という提唱にとどめている。 ゲッベルスは他党の何倍にもあたる数の党集会を組織することを心掛けた。野外演奏会や突撃隊の行進などを行って人々の関心を引き付けた。またこれまで一般的でなかった政治宣伝映画に目を付け、アメリカの20世紀フォックス社の技術提供を受けて、当時のドイツの技術力では困難だった野外でのサウンド映画を可能にして政治宣伝映画を盛んに放映した。宣伝内容も反ユダヤ主義など意見の分かれる問題は大きく取り扱わず、ヤング案反対や公的生活に特殊利害が蔓延してることへの批判など全国民から幅広く共感を得やすい問題を一点集中で取り扱うようにした。 折しも国家人民党は分裂で弱体化へ向かっており、人民党は社民党との連携により反マルクス主義の立場が説得力を失って失望されていた。民主党も小党への没落の途上にあり、中産階級経済党(ドイツ語版)も組織力の弱さを失望されて中産階級が離れはじめていた。これら没落へ向かう右派から中道のブルジョワ諸政党からナチ党は中間層の浮動票をうまく吸い上げた。 その結果、得票640万票〔得票率18パーセント〕)を得て107議席を掌握。一気に社民党に次ぐ第2党に躍り出るという大勝利を収めた。選挙翌日にはマスコミ各紙がベルリンのナチ党事務所に殺到した。これまでナチ党系の新聞以外のマスコミがナチ党の事務所に取材に来ることなどほとんどなかった。ゲッベルスは記者からの質問に対して「戦いは始まったばかりである。実際はまだ始められてもいない。私は今しがた来たるべき戦いへの指令を出したばかりである」と短く答えただけで退出している。
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