1930年夏の党内危機をめぐってとは? わかりやすく解説

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1930年夏の党内危機をめぐって

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:12 UTC 版)

ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「1930年夏の党内危機をめぐって」の解説

1930年夏にはナチ党内で大きな内紛2つあった。一つナチス左派中でも特に急進的なオットー・シュトラッサーまつわるのである復古的・反動的保守勢力である国家人民党鉄兜団との連携に不満を募らせていたオットーは、党首ヒトラーの「保守偏向」や「ブルジョワ的生活」を本格的に批判するようになり、オットーヒトラーの関係はいよいよ抜き差しならぬものとなったオットーの兄グレゴール党首ヒトラー表立って逆らう事はしなかったが、オットー断固抵抗構え見せた1930年5月21日ヒトラー自らベルリン訪れてオットー7時間に渡る討論行い懐柔ようとしたが、オットー土地国有化共同農場利潤の公平分配・ブルジョワ反対といった社会主義政策党の方針掲げ保守右翼政党との連携断ち切るべきことを要求した。 もはや如何ともしがたい判断したヒトラーは、オットー除名決意し6月20日ゲッベルスオットー追放指示したかつては同じナチス左派としてオットー親しい関係にあったゲッベルスだが、追放には何らためらい見せなかった。ゲッベルスは、6月30日にもベルリンのハーゼンハイデで大管区党員集会招集し、「規律に服さない者は党から追放される」と宣言したオットーとその支持者たちは会場来場して反論しようとしたが、ベルリン親衛隊司令官クルト・ダリューゲらに阻まれ来場できなかった。ついで7月2日党役員会議ゲッベルスオットー除名決議した7月4日にはオットー自らも新聞紙面で離党宣言し、他の党内社会主義者にも離党促したが、追従者少なく24名だけだったヒトラー党内での待遇改善求め突撃隊の関係も悪化していた。1930年7月18日国会解散された後の8月1日突撃隊指導者国会議員選挙名簿加えるよう要求した突撃隊司令官フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン要求ヒトラー拒否する事件があり、不服思ったザロモン8月12日突撃隊司令官辞職した。さらにベルリン突撃隊ヴァルター・シュテンネスSA大尉突撃隊員の貧困に比して党幹部裕福な暮らし激怒したベルリン大管区指導者であったゲッベルスがシュテンネスの攻撃対象にされ、8月27日にはシュテンネスが部下たちを率いてゲッベルス演説妨害する事件発生した。その翌日にはシュテンネス一派ミュンヘン本部に対してゲッベルスベルリン大管区指導者解任要求したヒトラー却下した不服としたシュテンネス一派8月30日にヘーデマン街 (Hedemannstraße) の管区本部襲撃開始したゲッベルスダリューゲ率い親衛隊部隊出動させて鎮圧しようとしたが、失敗しこれまで散々バカにしてきた警察助け求めざるを得なくなり警察介入でようやく鎮圧した9月1日ヒトラー自らがベルリンへ赴き、シュテンネスと会見して選挙前騒動起こすことはやめるよう説得してひとまず争い収めたシュテンネスの反乱ドイツ語版))。

※この「1930年夏の党内危機をめぐって」の解説は、「ヨーゼフ・ゲッベルス」の解説の一部です。
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