1930年夏の党内危機をめぐって
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「1930年夏の党内危機をめぐって」の解説
1930年夏にはナチ党内で大きな内紛が2つあった。一つはナチス左派の中でも特に急進的なオットー・シュトラッサーにまつわるものである。復古的・反動的保守勢力である国家人民党や鉄兜団との連携に不満を募らせていたオットーは、党首ヒトラーの「保守偏向」や「ブルジョワ的生活」を本格的に批判するようになり、オットーとヒトラーの関係はいよいよ抜き差しならぬものとなった。オットーの兄グレゴールは党首ヒトラーに表立って逆らう事はしなかったが、オットーは断固抵抗の構えを見せた。1930年5月21日にヒトラー自らベルリンを訪れてオットーと7時間に渡る討論を行い、懐柔しようとしたが、オットーは土地の国有化・共同農場・利潤の公平分配・ブルジョワ化反対といった社会主義政策を党の方針に掲げ、保守・右翼政党との連携は断ち切るべきことを要求した。 もはや如何ともしがたいと判断したヒトラーは、オットーの除名を決意し、6月20日にゲッベルスにオットー追放を指示した。かつては同じナチス左派としてオットーと親しい関係にあったゲッベルスだが、追放には何らのためらいも見せなかった。ゲッベルスは、6月30日にもベルリンのハーゼンハイデで大管区党員集会を招集し、「規律に服さない者は党から追放される」と宣言した。オットーとその支持者たちは会場に来場して反論しようとしたが、ベルリン親衛隊司令官クルト・ダリューゲらに阻まれて来場できなかった。ついで7月2日の党役員会議でゲッベルスはオットーの除名を決議した。7月4日にはオットー自らも新聞紙面で離党を宣言し、他の党内社会主義者にも離党を促したが、追従者は少なく24名だけだった。 ヒトラーと党内での待遇改善を求める突撃隊の関係も悪化していた。1930年7月18日に国会が解散された後の8月1日、突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に加えるよう要求した突撃隊司令官フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンの要求をヒトラーが拒否する事件があり、不服に思ったザロモンは8月12日に突撃隊司令官を辞職した。さらにベルリンの突撃隊員ヴァルター・シュテンネスSA大尉が突撃隊員の貧困に比して党幹部の裕福な暮らしに激怒した。ベルリン大管区指導者であったゲッベルスがシュテンネスの攻撃対象にされ、8月27日にはシュテンネスが部下たちを率いてゲッベルスの演説を妨害する事件が発生した。その翌日にはシュテンネス一派はミュンヘン党本部に対してゲッベルスのベルリン大管区指導者職解任を要求した。ヒトラーは却下した。不服としたシュテンネス一派は8月30日にヘーデマン街 (Hedemannstraße) の管区本部の襲撃を開始した。ゲッベルスはダリューゲ率いる親衛隊部隊を出動させて鎮圧しようとしたが、失敗し、これまで散々バカにしてきた警察に助けを求めざるを得なくなり、警察の介入でようやく鎮圧した。9月1日、ヒトラー自らがベルリンへ赴き、シュテンネスと会見して選挙前に騒動を起こすことはやめるよう説得してひとまず争いを収めた(シュテンネスの反乱(ドイツ語版))。
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