1930年代:保守派と革新派の党内対立
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「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「1930年代:保守派と革新派の党内対立」の解説
野党に転落した共和党は、1936年以降、保守派(西部・中西部で有力)と革新派(北東部で有力)に分裂し、いずれも党の伝統である共和主義を掲げつつ、鋭く対立した。 共和党には、結党以来、主要な一角としてリベラル派がいた。20世紀初頭にこの一派を代表する人物としては、1907年から12年にかけてのセオドア・ルーズベルト大統領や(それ以前はより保守的)、ウィスコンシン州のロバート・M・ラフォレット・シニア上院議員(息子たちによって1946年頃まで引き継がれる)や、西部の幹部たち、カリフォルニア州のハイラム・ジョンソン上院議員、ネブラスカ州のジョージ・W・ノリス(英語版)上院議員、ニューメキシコ州のブロンソン・M・カッティング(英語版)上院議員、モンタナ州のジャネット・ランキン下院議員、アイダホ州のウィリアム・ボーラ上院議員等があげられる。彼らは一般的に自由主義者な国内政策を掲げ、労働組合やニューディール政策の大半を支持したが、外交政策では孤立主義を主張した。 1930年代以降は、北東部の共和党員の多くがリベラルな立場を取った。代表的な人物として、ニューヨーク州のトマス・E・デューイ知事(1944年と48年の大統領選における共和党候補)、ニューヨーク市の フィオレロ・ラガーディア市長、カリフォルニア州のアール・ウォーレン知事、ニュージャージー州のクリフォード・P・ケース(英語版)上院議員、マサチューセッツ州のヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア上院議員、コネチカット州のプレスコット・ブッシュ上院議員、ニューヨーク州のジェイコブ・ジャヴィッツ上院議員、ペンシルベニア州のウィリアム・スクラントン(英語版)知事、ミシガン州のジョージ・W・ロムニー知事等があげられる。 この時代のリベラル派は一般的に、自由市場経済を支持しつつも一定の規制の必要性も認め、労働組合を支持し、ニューディール政策のほとんどを支持した。経済成長と州政府・連邦政府の財政出動を支持し、高率の税や規制を認めたが、民主党よりも自分たちのほうが効率的に政府を運営できると主張した。特に民主党が大都市に展開し、汚職の温床となっている集票組織を批判し、行政の効率性や、より効果的な景気刺激策を求め、企業と労働組合の双方から支持されることを目指した。そして、外交政策では国際主義を唱えた点で、以前の共和党リベラル派と異なっていた。 他方、オハイオ州選出のロバート・タフト上院議員を代表とする共和党保守派は、ニューディール改革に正面から反対し続け、外交面でも不干渉主義(英語版)を唱え続けた。西部は分裂し、そして南部は未だに民主党の牙城だった。 民主党でも、ルーズベルト大統領等革新派が党内の保守派との対立を深めていっていた。特に1937年に司法制度手続改革法(英語版)によって、最高裁判所の判事を増員しようとした計画は多くの反発を招いた。1938年初頭の大規模な景気後退により、全国各地で大規模なストライキが行われ、この影響と司法制度改革の失敗の影響により、1938年アメリカ合衆国下院選挙(英語版)では共和党が75議席を回復した。南部出身者を中心とする保守的な民主党員は、ロバート・A・タフト上院議員率いる共和党保守派と協力関係を結び、保守連合(英語版)を結成して、1964年まで議会における国内政策の決定権を握った。
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